■週替わりの夕暮れ[2013.12.15]、そしてサンドラ・ブロックの太腿 |
今日私が際会した、10分刻みの夕暮れの様子を掲げておこう。ここにも「もののあはれ」(本居宣長──物事に触れて感じる心持ち)がある。
ところで、先週、映画『ゼロ・グラビティ』(=無重力空間。アルフォンソ・キュアロン監督)を封切り日に観た。主演はサンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー。私は大のSF映画好き(ベスト3を挙げれば、『ブレードランナー』〔ルドガー・ハウアーが最高〕、『エイリアン』〔勿論、1〕、そして『2001年宇宙の旅』〔もうそろそろ古いが〕)。ポカーンと宇宙空間が現れるだけで嬉しくなる。
そうした人間にはこの映画は堪えられない。なにしろタイトル通り、舞台はほぼ、地球上空60万メートルの無重力空間。主演の二人は、船外作業中に、破壊された後ただ軌道上を進んでいるだけのロシア衛星の残骸に襲われる(3D画面なので、こちらに向かってくるそれを観客も思わず避けることになる)。そして、宇宙空間に放り出される。そこはただ慣性の法則が支配する世界──この恐怖感はとびきりだ。
映画の中、サンドラ・ブロックが坐るのは、宇宙船の操縦席に居る時だけ。後は空間を漂い、泳ぐ。彼女の涙すら観客に向かってゆっくりと飛んでくる。
さて私は、『スピード』で見て以来、サンドラ・ブロックに特別関心を持ったことはない。いかにも強気でタフそうなのはいいが、面の皮だけでなく皮膚全体がなんだか分厚くて水分が足りなさそうだ。だが、この作品中での黒いタイトなボクサーパンツ姿の太腿には、正直まいった。鍛えられ、真横からのカットではウエストほどの太さがあるそれは、圧倒的な存在感だ(あの脚で頸を絞められたくない、と思った)。
『エイリアン 1』のシガニー・ウィーバーの白いパンツにスニーカー姿も鮮烈だったし、前に私は、映画『アレキサンドリア』をめぐってレイチェル・ワイズの瞳のことも書いた。仮に映画監督の意図とは全く無関係だとしても(私はそうは思っていないが)、無重力空間を舞台にしたこの映画において、ぎりぎりのリアリティ(質量)を保証しているものこそは、サンドラ・ブロックの太腿だと感じた。太腿にしろ何にしろ、私たちが言う「存在感」とは、即ち重力の賜(恩寵)だろう。あの重量感のある太腿のために彼女がヒロインに選ばれた、と言うと大袈裟か。
夕暮れもそうだが、ただ一瞬の鮮烈な光景──そこには想像力とリアリティの交錯がある。それは重力と無関係ではない。「もののあはれ」もまた。