■桜樹の傍に眠る久本三多さん、そして週替わりの夕暮れ[1/25・27日] |
これは昨日夕方、新幹線で小倉到着間近。今年の同期会(小倉西高第23期生)開催要領の打ち合わせ会議に向かう。
どこに居ようが、どこに向かおうが、日が沈みつつあり、空が刻々その表情を変えていく場面を無視することはできない。
今年、福岡県立小倉西高等学校第23期生の同期会は、昨年同様、7月第3日曜「海の日」の前日(16日)、小倉祇園祭の真最中に開くことになった。
参考→高校同期会、そして命を謳う夕暮れ(2016年)
→小倉・紫川河畔での「還暦+1年」高校同期会(2014年)
→還暦同窓会──「異人」たちとの夏のひととき(2013年)
●26日
同窓会という話の流れでいえば、十日程前、面識はないのだけれど、声の様子からどこか親しい気持ちを抱いていただいているふうな方から電話をもらった。久本三多氏(葦書房創業者)の長崎西高時代の同級生で、久本さんのことに触れた私のブログ記事(久本三多氏のオルト邸、それに長崎チャンポン)を何度も読ませてもらっている、とおっしゃる。福岡市近辺に同級生が20人程在住、時々集まって旧交を温めていて、よく久本君の思い出話も出る、と。
ついては、「一度、みんなで久本君の墓参りをしようと思っている」ということで、私に久本さんのお墓の場所を尋ねるため電話をいただいたようだ。
さて、そもそも誰のものであれ、私は墓にほとんど関心を持たないのだけれど──小倉南区にある自家の墓へも年に一度行くかどうかという程度──、たまたま少し前に知人(業界の先輩)から、油山にある久本さんの墓へお参りに行った、という話を聞いたことを思い出した。
その知人も、どの霊園のどの辺りといった現地の様子を伝えるのは難しいようだったので、自分で調べてみて、久本さんは「油山平成御廟」(住所は那珂川町)に葬られていることが分かった。
油山は私の家から近く、山頂まで1時間強で歩いて登れる(→やっぱり、雪の油山)。こうなると何だかほっとけなくなり、自分の眼で久本さんの墓を確かめたくなった。
1977年7月、平戸への葦書房社員旅行の際の久本三多氏
「油山平成御廟」は「もーもーらんど油山観光牧場」の南側に位置し、南区柏原経由だと車で15分程。管理人事務所では若い女性が何人か立ち働いている。墓地もまだ分譲中で、来園者が結構多そうだ。久本さんの墓はそこから程近く、便利のいい場所にあった。
墓は、久本さんの風貌を思い出させるようにこざっぱりとした様子。最近、誰かが訪れた形跡はない。
墓の側面に、直接墓誌「葦舟院三明逹眼居士 平成六年六月八日/久本三多 享年四十八才」が、背面に「平成七年五月吉日 久本一魔建之」が彫り込まれている。
ふと目を上げると、墓の真後ろには桜樹が小さな蕾を無数に付けている。ああ、ここはまさしく──遠くに港(博多湾)が見えるかどうかまでは確かめなかったが──「チラリホラリと花片(はなびら)」(「港が見える丘」、久本さんのカラオケ愛唱歌)が降りかかる場所だ。
亡くなったのが1994年6月。霊園オープンが1990年3月ということなので、まだ創園まもない時期、一魔君(長男。昔、久本さん宅で何度も会った)他の方たちが、この場所に込めた想いが伝わってくる。墓無用と言い続けてきた身にも、ちょっぴり羨ましいロケーションだ。
標高があるので満開はやや遅く、4月初めはどれほど艶やかだろうかと想いを馳せつつ、霊園を後にした。
管理人事務所前。
●26日
全体的に曇っていたので、ウォーキング・スタート時にはほとんど期待していなかったが、次第に面白い空模様になっていく。
池に映っている様子も、何だか懐かしい。
こんな池でも、いつも釣りをしている人が居る。鮒か。ここで釣果を持ち帰っている人を見たことがないが……きっと、釣っても食べないのだろうね。
夕空の造形。