*このブログは、図書出版花乱社の[編集長日記]です。HPはこちらへ→http://karansha.com/
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2019年 04月 28日
■安倍政権主導の「改元」と「改憲」とは兄弟のようなもの、連休明けから「改憲」本格攻勢が始まる。もしくは「記憶は…釣り上げては 流れの中へまた 放すがいい」――アーサー・ビナード講演
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米国出身の詩人・絵本作家であるアーサー・ビナード氏の講演「平成末期の日本に立って――米国生まれの詩人がこの国を語る」(朝日新聞労働組合西部支部主催「言論の自由を考える5.3集会」の一環)を聴きに行った。なお私は、つい最近までビナード氏の読者ではなかった。 定員130人の会場は開演10分前にほぼ満員、後で補助椅子も出された。聴衆はおよそ中高年男女が半々というところだったが、私の前の席には母親と一緒の女子高校生も。ともかく凄い熱気だ。 最初に主催者挨拶をされた人が「今日は、10連休のさなか、平成最後の日曜日にお出でいただき……」と前置きし、すぐにビナード氏がのっけからそれを取り上げて「さすがに『平成最後の日曜日…』という言い方は初めて聞いた」と言ったものだから、爆笑となった。 ●開演前にビナード氏にサインをもらおうと並んでいる人たち アーサー・ビナード(Arthur Binard)氏は、1967年、ミシガン州デトロイト生まれ。ニューヨーク州のコルゲート大学で英米文学を学び、卒業と同時に来日、1992年から日本語で詩作を始める。 20歳の時には(恋人を追いかけて…と本人)ミラノでイタリア語も習得したとかで、元々語学には並々ならぬ才能があるようだ。 日本語に関心を持つきっかけは、英語にはアルファベット26文字しかないのに、日本語には3種類(漢字・ひらがな・カタカナ)も文字があり、さらに漢字の数はどれくらいあるのかと訊けば「分からない」とか「1万字以上」と返ってくることに驚愕してから、と。 1990(平成2)年に来日して以降、30年近く日本で暮らしているということでは、いわば「平成の申し子」とも言えるのではないか、と笑いを取った後彼は、「昭和」という元号にはまだしも(自分なりに調べたり訊いたりして)それなりの根拠や根っこはあったような気がするが、「平成」の間に、日本人の中にあった言葉の根っこについての感覚ががかなり弱まってしまったように感じる、と。 さらにこのたびの「令和」などという元号は、日本人の生活や感性に根ざしている言葉(文字表現)ではないし、そもそも今の世界の中で他国には全く無関係な時代区分が今更何故必要なのか、と。 日本人の生活や感性に根ざしていないということの証として、「では皆さん、東北大震災が起こったのは平成何年か言えますか?」と彼が問うた。 別に会場内に挙手など求められたわけではなかったが、一人の女性が「平成23年」と答えた。覚えている理由は、「私が昭和23年生まれなので、そこから、平成23年はどういう年になるのだろう? と思っていたので」ということだった。 そういう(平成○年で記憶している)方は珍しいだろうと思いますが、それはそれでその方にとっては、「平成23年=2011年」というのが自分にとって何らか意味や根拠があったからですね――とビナード氏。 以下、書き方が煩わしいので、(とりわけこの頃あまり自信のない)記憶と簡単なメモをもとに、ビナード氏の発言を全体的に掻いつまむ。話の順序も不同、言葉遣いや単語もそのままではない。論旨はねじ曲げたり誇張していないつもりだが。
* 「令和」という言葉は、『万葉集』から「引用」し、初めて国字/日本古典から取ったものだ、と政権側はアピールしているが、実は『万葉集』の中からといっても、和歌からではなく漢文で書かれた序文から取られている。 また、「于時、初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」という原文から、ランダムに「令」と「和」だけを取り出したものを、「引用」と言うのはおかしい。 そもそも、『万葉集』は大切な古典とされるが、99.9%の日本人は読んだことがないのでは?(大爆笑) ところで、元々「改元」という言葉も省略表現だとすれば、元の四文字熟語は何だろうか?(「元号改正」の他、「大化改新というのがあるので『元号改新』では」という声が挙がる) もしそれがそうなら、略称は「元改」となるのでは? そして、同じタイプの省略形としてすぐに思い浮かぶ言葉は何だろうか? そう、「改憲」(憲法改正〔改悪〕)。これも何故、「憲改」とはならずに、「改」が先に来るのだろうか。 ここでは、「改」という文字の強さが効果的に使われている。「元改」とか「憲改」とかと違って、「改元」や「改憲」には、有無を言わせぬものがある。 そして、「元号が改まった」という流れは、次に、憲法をこのままにしておいていいのか、何故改めないのか――というムードの先取りがなされている。いわば「改元」と「改憲」とは兄弟なのである。 要するに、今回の「改元」騒ぎは、無理矢理な10連休工作も含めて、安倍政権のでっち上げもしくは政治利用なのである。 「昭和」に対して「平成」がそうだったように、「改元」は過去をより遠く錯覚させ(「降る雪や明治は遠くなりにけり」中村草田男【後で調べると、草田男は、1910年に1931年のことを詠ったようだ】)、過去を忘却させる「装置」になり得るのではないか。「それはもう(過ぎた)平成時代のことでは」と。 幸い、日本国憲法はまだ「原型」を留めていて、少なくとも「平成」の間は安泰だろうけれど(会場爆笑)、「改元」後、即ちこの10連休後から、政権側からの「改憲」攻勢が間違いなく始まるだろう。これには電通などの大手広告会社も絡んでいて、既に「改憲」に向けてのシナリオが作られ、大キャンペーンの準備がなされているはず。 私たちにはもう後がない。では、今、何ができるだろうか――。 聞き伝えの話だけれど、太平洋戦争であちこちに置き去りにされている遺骨の捜索を続けている人の言葉として、航空機事故などの際には「遺骨収容」だが、何故か戦没者においては(「ゴミ収集」などと同じ)「遺骨収集」が遣われる、「ご遺骨収容」と言うべきではないか――という話に私は大きなショックを受けた。 このように、意図的に作られ流布している「正式名称」や無意識の中に刷り込まれてきた言葉に対し、自分たちの根っこにある言葉を掘り起こし、必要なら対抗的に「造語」していかないと、私たちは一番大事なものを失ってしまうのでははないだろうか。 人間を押し潰そうとするものとのせめぎ合い――そこで私たちが言葉に対して本気かどうかが問われている。 *
ビナード氏は12歳の時に飛行機事故で父を喪い、反抗期を父親不在で過ごしたという。 初めての詩集『釣り上げては』(思潮社、2000年)には、父と一緒に釣りをしたミシガン州の川での思い出が語られている。 釣り上げては
父はよく 小さいぼくを連れてきたものだ ミシガン州 オーサブル川のほとりの この釣り小屋へ。 そして或るとき コーヒーカップも ゴムの胴長も 折りたたみ式簡易ベッドもみな 父の形見となった。 カップというのは いつか欠ける。 古くなったゴムは いくらエボキシで修理しても どこからか水が沁み入るようになり、 簡易ベッドのミシミシきしむ音も年々大きく 寝返りを打てば起こされてしまうほどに。 ものは少しずつ姿を消し 記憶も いっしょに持ち去られて行くのか。 だが オーサブル川には すばしこいのが残る。 新しいナイロン製の胴長をはいて ぼくが釣りに出ると 川上でも 川下でも ちらりと水面に現れて身をひるがえし 再び潜って 波紋をえがく―― 食器棚や押し入れに しまっておくものじゃない 記憶は ひんやりした流れの中に立って 糸を静かに投げ入れ 釣り上げては 流れの中へまた 放すがいい。 3種類の文字がある日本語の中で、カタカナやひらがなが好きだ、とビナード氏は言う。私は、『さがしています』(童心社、2012年)という、「ヒロシマ」について触れた絵本を買って(勿論サインをもらって!)帰ったが、その他たくさんある著書(特に絵本)でもタイトルにカタカナ・ひらがなが多用されている。 かな書き効果といえば、同詩集は「中原中也賞」を受賞していて、その中原中也の詩句がすぐに頭に浮かぶ。 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(「サーカス」) ビナード氏は講演でそうは語らなかったが、漢字/漢語は、やはり「権力の文字/言葉」と言うべきか。 朝鮮半島経由で漢字が伝わってくるまで、この花綵(かさい)列島(まだ「日本国」は無い)に住む人間には表記文字がなかった(らしい)。漢字(即ち文明)が入ってくるというのは、大陸から強大な権力が進攻してきたということだ。そして、その漢字からやがてカタカナとひらがなが造られた。 即ち、言葉や文字はいつも権力に脅かされている。 詩人として、庶民として、自分たちの言葉を「造語」していかなければならない、とビナード氏は語る。これも権力との戦いだ。 「丁寧に/真摯に/誠実に」・「寄り添う」など、安倍晋三が滅ぼした――つまり “根こぎ” した――言葉は数多い。かく言う理由を私自身が “丁寧に” 説明する必要は最早ないだろうが、どのようにすれば一つの「言葉」が壊れて死滅するか――この数年、私たちは彼から “真摯に” 学ばせてもらってきた。 そうした言葉についても(「自然」と全く同じく)、もう一度掘り起こし、息吹を与えて蘇らせる――勿論、私たちにとってその言葉が表す価値観がその時でも大切であればだが――には、一体どれほどの年月がかかることだろう。 なお、私自身はこれまで、仕事柄もあって、漢字が当てはめられる言葉はなるべく漢字使用で表記しようと心掛けてきた(勿論、書けない漢字が年々増えている)。象形文字として一目でニュアンスが伝わるし、文字数節約にもなる。 けれど今、漢字や漢語が或る種権力的だという意味は分かる。留意・記憶しておきたい。記憶や記録は、過去や歴史の「改変」に抗うためのもの。 記憶は ひんやりした流れの中に立って 糸を静かに投げ入れ 釣り上げては 流れの中へまた 放すがいい。 [5/1書き掛け] * 小雨となりそうだったが、明日から数日は雨模様なので短時間でもウォーキングへ。 通り道の軒先に咲く鉄線(クレマチス)。 さて…。 暮れ落ちる前の油山。
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