*このブログは、図書出版花乱社の[編集長日記]です。HPはこちらへ→http://karansha.com/
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2020年 01月 17日
■気宇壮大で頑固一徹、“田舎気質” の真骨頂、圧巻の365話──光畑浩治著『平成田舎日記』
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時の経つのは早いもので、もう昨年となった12月初め、光畑浩治著『平成田舎日記』(A5判変型/392ページ/ソフトカバー/定価2200円)を刊行した。 光畑さんの「田舎日記」シリーズはこれで3冊目だが、既刊の2冊はいわば “変型コラボレーション” の共著。 ●2014.6.10刊/文:光畑浩治 書:棚田看山『田舎日記・一文一筆』 =エッセイ+1文字墨書 →高校卒業半世紀後のコラボレーション──『田舎日記・一文一筆』 ●2016.1.8刊/文:光畑浩治 写真:木村尚典『田舎日記/一写一心』 =エッセイ+カラー写真 →『田舎日記/一写一心』(文:光畑浩治/写真:木村尚典)について(それぞれの書名の真ん中に入っている「・」と「/」は、ミスや誤植ではなく、本のままの表記で、意図があって違えている。念のため) これまでの「田舎日記」シリーズ共著2冊は、光畑さんの原稿の収録本数それぞれ108本。これは人間の煩悩の数になぞらえた。 今回のは文字原稿のみで、その数365本、すなわち1年分(といっても文字通りにその日その日の「日記」ではない)。それで400ページ近いボリュームとなった。 原稿自体は昨年初めに入稿、光畑さんからは「平成のうち(4月末)までに出版できないか」との相談を受け、「それは……無理ですよ」などと遣り取りしつつ、記述内容の点検確認や文字校正などをやっていく中で、結局、年末時期までかかった。 ただし、奥付上の発行日は、光畑さんの希望で「令和元(2019)年11月11日」と。 誰にでも色々な行き掛りがあり、発見やアイデアがあり、拘りや執着があり、洒落てみたいという想いもある。乱暴に言ってしまえば、或る面、「本」というのはそういうものの集大成ではないだろうか。また、そのあたりの自由さ・適当さが地方零細出版社の強みだ(と、強がって言うことでもないが)。 本書365話の内容は、帯に掲げているように、ふるさと京築のこと、埋もれた歴史、忘れられた人々、文学、歌心、言葉遊び、世相……。いずれも──これも拘りで──1話1000字でまとめられている。ちなみに、近年地元でも承知していない若者が増えてきたとも聞いているが、ここで言う「京築(けいちく)」とは、「北九州地方の南東側、福岡県東部に位置する行橋市、豊前市、京都郡、築上郡の2市5町が属する地域である。京都郡と築上郡の頭文字をとった合成地名」(Wikipedia)。 題字揮毫は書家の棚田看山さん、本文挿絵は画家の増田信敏さん。棚田さんは光畑さんと豊津(現育徳館)高等学校の同級、増田さんは同級ではあるが京都(みやこ)高等学校の卒業生。 本書巻末に掲げた同級3人の写真をここにも(左から、棚田・光畑・増田の各氏)。失礼ながら、樹木と一緒で、皆さんそれぞれ、生き抜いてきた歳月を思わせられて愉しい。 今回、とりわけ嬉しかったのは、光畑さんの要望があり、同じく私が敬愛する古書の葦書房店主・宮徹男さんに序文をいただいたことだ。 以下、その全文を(一部の数字表記を改め、適宜1行アキを作った)。 「平成田舎日記」上梓を言祝ぐ 序に代えて
光畑浩治氏がこのたび、『平成田舎日記』を上梓するので私にその序文を書けとのご下命。光畑さんはこれまで、『ふるさと私記』(2006年)や書家・棚田看山氏との『田舎日記・一文一筆』(2014年)、写真家・木村尚典氏との『田舎日記/一写一心』(2016年)の「田舎日記」コラボレーション・シリーズ2冊を刊行されているエッセーの名手。その名文章に私の悪文などおこがましい、と逃げていましたが、花乱社の別府さんも加わっての攻勢でギブ・アップしました。 手元にある『広辞苑 第三版』で「いなか」の項を引くと、〈いなか【田舎】①都会から離れた土地。在郷(ざいごう)。ひな。地方。②郷里。故郷。③「いなかじるこ」の略。④「卑しい」または「粗暴な」の意を表す語〉とある。 さらに「ふるさと」の項を開くと、〈ふるさと【古里・故郷】①古くなって荒れはてた土地。昔、都などのあった土地。古跡。旧都。②自分が生まれた土地。郷里。こきょう。③かつて住んだことのある土地。また、なじみ深い土地〉とある。 私どもの古書業界では「田舎版」と呼ばれるものがある。江戸期の出版は、享保期までは何といっても京都がその中心であり、江戸・大坂はそれに追随していたが、享保を過ぎる頃から逆転し始めて、次第に江戸が首位となり、大坂・京都がそれに従うようになる。この三都における出版物に対し、地方で刊行された出版物は俗に「田舎版」と称されるようになる。 「田舎版」の特徴は、彫りの粗雑さ、墨色の汚さ、製本の簡略さなどが挙げられ、あらゆる面で粗末な出来栄えを示す薄冊(ぼさつ)を言う。 10年位前、書庫の整理をされた光畑さんから蔵書の処分を頼まれ、畑の中に新築されたご自宅へ伺ったことがある。その時拝見したのが、まずは、すべて初版本の芥川賞受賞作品のコレクション。第3回の受賞作(第2回は該当作品なし)鶴田知也の『コシャマイン記』から始まり、第140回位まで揃えておられた。残念ながら、第1回の石川達三『蒼氓』はお持ちではなかった。『蒼氓』の完本は、バブル期には一冊100万円の古書価が付いていたことがある。 ついでだが、鶴田知也は明治35年(1902)、小倉で生まれ、幼少期に小学校を転々とし、最後に豊津尋常高等小学校を卒業、大正4年(1915)、京都郡豊津村(現みやこ町)の福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館高等学校)に入学し、卒業している。鶴田の生家の本籍地は京都郡豊津村で、社会主義者・堺利彦、プロレタリア作家・葉山嘉樹の出生地でもある。 芥川賞受賞作家でいえば、若松出身の火野葦平は、昭和12年(1937)、日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』が翌年に第6回芥川賞を受賞したことを陣中で知る。戦地で行われた授与式には、日本から小林秀雄がおもむいた。第9回『あさくさの子供』の長谷健は山門郡東宮永村(現柳川市)の生まれ。昭和4年(1929)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。この頃からペンネームを長谷健とする。昭和7年(1932)、浅草区浅草小学校に転勤。浅草での教師体験をもとにした『あさくさの子供』で第9回芥川賞を受賞。昭和32年(1957)、交通事故のため急逝。53歳の若さであった。第4回芥川賞受賞『地中海』の冨澤有爲男も生まれは大分市である。 このように見ると、戦前における20名余の芥川賞作家の中で実に故郷人の華やかなことか。 さらに光畑氏宅で拝見したのは、江戸中期の謎の浮世絵師・東洲斎写楽の関連文献の蒐集であった。明治43年(1910)、ドイツで発行されたユリウス・クルトの『SHARAKU』ほか、2000点以上の写楽関係書籍・雑誌を見せていただいた時には驚愕したことを憶えている。 写楽は、寛政6年(1794)5月から翌年1月にかけての10カ月間に、百四十余点を版行している。中でも雲母摺、大判28枚の役者大首絵は写楽の代表作と言われ、ひところ一枚1億円のオークション値を記録している。 このようなことを考えると、田舎暮らしといえども常に遙かな世界を見渡し、一旦始めたらとことん最後まで貫徹する光畑さんの “田舎気質” こそが、「田舎日記」シリーズを支えているように思える。 古書の葦書房店主・宮徹男
【参考記事】→葦書房、最後の夕暮れ[2014.12.29] ●本文見本 以下、本文から原稿2本を紹介する(一部の数字表記を改めた)。 絶壁に内尾のお薬師さん
作家・森崎和江『草の上の舞踏』に「(略)ここは福岡県にある内尾山宝蔵院相円寺という、俗に内尾薬師。朝鮮人のおばあさんが(略)」の随想に魅かれ、苅田町の殿川ダム奥にある全山巌石の絶壁に鎮座する「内尾のお薬師さん」を40年前に訪ねたことを思い出す。当時、寺の春祭りでは「半島の人は、朝鮮も韓国もありません。草の上で踊りを踊り、舞を舞う、苦労を忘れ、無心になって舞を踊るんです」と、勝尾明道大僧正は語った。 2017年6月、静かなダム湖面を見ながらダム脇参道を内尾薬師に向かった。木漏れ日を浴びる急峻な石段は昔を甦らせる。二百五十余段の中腹に勝尾拓明(61)僧正の家があり、さらに細い石段が続く。と、ぽっかりと開く二つの鍾乳洞広場。そこには巨大な薬師如来坐像(2.72メートル)が座る。豊前小倉藩二代藩主・小笠原忠雄(ただたか)は、貞享4年(1687)雨ざらしの野仏を守る命令を出し堂を建立した。社には三階菱の印あり。 木像坐像は、楠の寄木造りで国東の仏教文化の流れを汲む。奈良時代の僧・行基作と伝わり県指定彫刻文化財(昭和32年)となっている。仏に手を合わせ、洞を抜けると、突然、内野という広場がひらける。木立から青空がのぞき、さわやかな風が吹く、一つの聖地のようだ。その広場には「民族的にしたしんだ神の祭りが、このにほんでも行われていることを知り、救われたおもいがする」と親しまれ「アリランのなんとはるかなおもいのこもった」舞が舞われる春祭りがあった。 ところで天台宗の相円寺が、朝鮮半島の人々の参拝の地になったのは、拓明僧正の祖父(日司)時代といわれるが、民族が一つになって異国の地で舞った踊りは、今、その姿を見ることはない。ただ、時代が変わっても夏の大祭(7月23日)などでのお参りは、北も南もなく、親、子、孫の家族団欒は変わらない。 森崎は「(略)私たちのうたは、まだ生まれていないんだな、と私は思う。私たちいまここにいる、朝鮮半島の北を故国とした人や、南を故国とした人や、日本の国籍を取った人や、そしてその子も孫もおやこさんに遊びに来るだろうと予定している人たちや、そして私たちにほんの女などが一緒に想いをこめてうたえる(略)」うたを捜し「(略)わたしはほがらかじゃろ。人は、あんたくろうないね、いうよ、わたしのこころ、くろうのやまよ、くろうのかわよ、アイゴ(略)」と記し、あかるい老婆になることを願って筆を擱く。 (2017・6) 北原白秋三人の妻
この道はいつか来た道/ああ そうだよ/あかしやの花が咲いてるあの丘はいつか見た丘/ああ そうだよ/ほら 白い時計台だよこの道はいつか来た道/ああ そうだよ(略)(北原白秋「この道」) 懐かしい調べにのって優しい情景の童謡や詩、歌などの詞が蘇ってくるが、詩人の北原白秋(1885~1942)は火宅の人だったようだ。妻三人の軌跡を追う。 白秋は福岡県柳川市出身で伝習館中(現伝習館高)入学後、詩文に熱中。明治37年(1904)長詩「林下の黙想」が河井醉茗(すいめい)に認められた後、中学退学、早大予科に入学。若山牧水などを識り、号を「射水」として牧水、中林蘇水とともに「早稲田の三水」と呼ばれた。 最初の妻は、三重県名張市の漢方医の娘で既婚の松下俊子(1888~1954)。明治43年、引っ越し魔の白秋が人妻で別居中の彼女の隣家に転居すると、やがて恋愛関係になった。松下の夫から姦通罪で告訴され二人は未決監に拘留。示談成立、釈放、協議離婚の後、結婚したが彼女が肺結核に罹患、小笠原の父島に移住するも、すぐに帰京。大正3年、家で父母との折り合い悪く離婚した。このスキャンダルで白秋の名声は地に落ちた。 第二夫人は、大分県豊後高田市の旧家三女の江口章子(あやこ)(1888~1946)。彼女は弁護士と結婚、大分で暮らしていたが離婚。大正4年、平塚らいてうを頼って上京。翌年、白秋を知り同棲、大正7年に入籍するが、9年には離婚。彼女は大分、別府などを転々としたが、精神に変調をきたして入院。後、詩集などを出版して晩年は尼僧になった。 三人目の妻は、大分県大分市出身。宗教家・田中智學(ちがく)のもとで仕事をしていた佐藤菊子(1890~1983)。大正10年に白秋と結婚して長男、長女が生まれ家庭的安息の日々が続くことになる。白秋の半生は実家の破産、姦通、離婚、困窮など失敗の繰り返しだったが、菊子によって家庭生活の安らぎを得た。歌作の意欲も湧いてきた。しかし糖尿、腎臓病の合併症で眼底出血、白秋の視力は失われていった。前妻二人が歌を詠む。 この世なるものの姿の消えゆかば 嘆きはつきじ堪え難きかな俊子 観音のまことの夢にも経ちますや おん目あけよとわれも祈るに章子 お互い心通じる時を経て、今、めぐり叶わぬ久遠にいたとしても届けたい詞はある。 (2017・11)
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