■棕櫚竹も来た |
少し前、純朴そうな声の中年男性から「香椎(市内東区)の植木屋ですが、植木のお届け依頼がありまして」という電話が入った。
えっ、植木?(そんな物もらっても困る) 誰から? 「同級生たちから、とのことです」
同級生たち? 香椎の……。
7人の名前を聞いて、話がようやく判明。
1989年1月から、私は知人と山の会を始めた。それまでも単独もしくは何人かで登ってはいたが、折角なら人を集めてパーティを結成しようということになった。
しばらくは10人程度で、ほぼ毎月、福岡・熊本の範囲で日帰り登山を行った。
私は企画者として、「近辺100山」という目標を掲げ、毎回、登山の報告と次回予定を記した通信を書いて参加者に送った。A4判で8ページ程。それを「山歩(さんぽ)通信」と銘打ったことから、いつしか「山歩会」と自称するようになった。
私は、たかだか1000メートル前後の山が中心であっても、1回の登山、それはやはり一つの「旅」であり、そこには必ずや何かしら出会いや発見があるはずで、それをまず記録したいと思った。それはまた、青臭い言い方をすれば、自己の感受性と想像力を鍛える場でもあった。
登山口や登りはじめの華やぎ、いつしか口数も減ってくる登路、谷間や尾根道での休憩、山頂での乾杯・昼食とその後横たわってのまどろみ、落ち葉を踏んで歩く縦走路、そして下山後の充足感に浸る林道歩き……それら山独特の体験や味わいは、山自体(の魅力)や季節や天候など自然条件に支えられるのは勿論として、「仲間」がいてこそのものだった。
北部九州の山はほとんど登った。毎年、くじゅうへの一泊行(法華院温泉)も行った。
次第に、多い時は参加者20人程となり、そうなると互いに声も届かず、登山ペースのばらつきも加速し、もう、一つのパーティの体(てい)をなさなくなってきた。そこにあれこれ人間事情も加わったので、私はこれ以上世話役を続けられないと考え、独断で会を「休眠」させることにした。それが1997年11月、丁度90回目。最後の通信は20ページになった。
(ちなみに、以後、長年私は、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』中のエピソード──バルコニーの下で100日間王女を待ち続けることを誓いながら、99日目の夜にそこを立ち去った兵士の想いを忖度し続けた〔勿論、100分の90と99とでは意味合いは違うが〕。人は何故、ようやく満願成就というその前夜に、愛しい者の待つバルコニーの下から立ち去るのか)
さて、当時の山仲間7人が私に贈って下さったのは立派な棕櫚竹。覚えてもらっていただけでも嬉しいし、事務所内に豊かな緑が広がった(仕事場には、心を奮い立たせるものとひととき気持ちを鎮ませるものとが必要だ)。
それだけに、今秋はくじゅう登山どころでなかったことが悔しい。
なお、件(くだん)の植木屋さんは、棕櫚竹の大きな鉢を据えた後、弱ってきたバキラをどう扱ったらいいかとの私の相談に気さくに応えてくれただけでなく、「こう向けたほうが」と、ヒョイとその大鉢の向きさえ変えてくれた。その道のプロはこうありたい。
