■装丁家が語る電子書籍 |

桂川氏(東京都在住)は昨年10月、『本は物(モノ)である──装丁という仕事』(新曜社。帰りに私も財布の中をしばらく睨んだ上で買い、サインをもらった)を出されていて、それを読んだブックスキューブリックの大井実さんが、ブックデザイン展の企画を立てられたらしい。「発売1週間後に福岡市の書店からメールで依頼が来て驚いた」と桂川氏。
参加者20人足らずか。やはり女性が多い。旧知の出版関係者が何人か来ているかと思いきや、ほとんど見かけなかった。皆さん大忙しなのだろう。窓際の小さなテーブルに向かい桂川氏が一人、物静かに坐っている。
実は私は、装丁家・桂川氏の名前に覚えがなかった。けれど、展示された本を見ると、例えば岩波書店「ことばのために」シリーズ他、同氏装丁の本を何冊か持っていた。
遅れている人たちを待って、例の「博多時間」、15分遅れでトーク・スタート。

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講演めいた催しは(そして九州の地に来るのも)初めてということだったが、桂川氏のお話は分かりやすく、装丁入門から始まり、喫緊の課題である電子書籍へ。とりわけ後半はとても興味深く、装丁家もしっかりと勉強し、時代と向き合っていることを知らされた。
いろいろなポイントがあったが、記憶が曖昧な部分も多いので、当日配られたコピー(桂川潤「電子ブックと『書物としての身体』」──『一冊の本』2010年6月号)からかいつまんでおきたい。
桂川氏は、「書物(紙の本)の歴史」は、そのまま人間の「脳化」(物質的な桎梏からの「知」の解放)の歴史、「身体喪失」の歴史であった、そして今日、身体性の最後の縁(よすが)であった「物としての本」が存亡の危機に瀕している、と言う。
「大量印刷物としての紙の本を存続させるためには、版元や書店、流通業界だけでなく、インフラとなる製紙・印刷・製本といった製造業界、そしてブックデザイナーが、足並みをそろえて戦略を考えるべきだろう。電子ブック問題とは、『身体』を捨象し続ける『都市化=脳化』(養老孟司)の帰結であり、『心と身体』という古典的相克をあらためて問いかける問題なのだ。一度失われた『身体』を取り戻すの容易ではない」
そういう前提に立っての、「本は物」という打ち出し方になっていることが理解できた。
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電子書籍については、文字サイズを自由に拡大できることが便利さの一つとして謳われている。だが、文字サイズの拡大・縮小が自由ということは、一画面に表示される文字量がまちまちとなるわけで、そうなると、読者それぞれに共通な「○○ページ」という言い方が成立しなくなる。桂川氏が利用した機器ではそもそもノンブル表示がなく、これだと何の本の何ページという形で引用や出典箇所を明らかにしようとする場合に不都合ではないか、と指摘された。
もっと重要なのは、内田樹氏が言っていることだが、電子書籍では「自分が一体どこを読んでいるのかわからない」と。
後で、池澤夏樹編『本は、これから』(岩波新書)に収録された内田氏の「活字中毒患者は電子書籍で本を読むか?」原文にあたってみた。
「自分が全体のどの部分を読んでいるかを鳥瞰的に絶えず点検することは、(略)読書する場合に必須の作業である。(略)グラウンドレベルで読み進んでいる自分を『読み始めから読み終わりまでの全行程を上空から鳥瞰している仮想的視座』からスキャンする力がなければ、そもそも読書を享受するということは不可能なのである。(略)私はその能力を『マッピング』と呼ぶ(略)。『おのれ自身を含む風景を鳥瞰する力』。ヘーゲルだったらそれを『自己意識』と呼ぶだろうし、フッサールだったら『超越論的主観性』と呼ぶだろう。(略)それは人間が生きる上での不可欠の能力である。そして、読書はその力を涵養するための好個の機会なのである」
いつもながらの内田さんの見事な指摘だ。この話は、確かに私にも思い当たる。例えば、新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』に長い時間をかけた時、下巻もあと100ページ程度を残す辺りとなって、「遙かに遠くへ来たものかは」という(少し寂しくもある)嬉しさ、達成感への期待の高まりを思い出す。その感慨は、5ミリ程の(残りページの)紙厚の感触と切り離しがたい。
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桂川氏は、なんと年に200冊程度、装丁を手掛けられるらしい。その数字をあえて編集者に置き換えてみれば、年20冊出版に相当するだろうか。これはとてもハードな仕事だ。
「物である本」の危機は、勿論装丁家にとって「由々しき事態」だと言いつつ、電子ブックの突きつける問題を広い視座で捉えていこうとする桂川氏の冷静な知性、そして、このようなリアル・タイムな課題を含む企画を果敢に立案・継続されている大井さんの情熱に、大きな刺激をもらった一夜だった。
(画像はいずれもブックスキューブリックHPから転載)