■社会と歴史と言葉と──「地方史ふくおか」寄稿分転載 |
福岡地方史研究会は、1962年に「福岡地方史談話会」として創立(1980年に会名変更)、「民学協同」を掲げ、1964年からは会報(年報)を発刊、全国的にも有数の50年近い歴史を持つ集まりだ。私は会報第40号からその制作に携わってきて、今年の第49号からは花乱社で制作・発売を行うことになっている。
という経緯で、「巻頭に何か書かないか」とのお誘いがあり、折角の機会と寄稿させていただいた。雑駁なことしか書いていないが、ここに転載しておきたい。
社会と歴史と言葉と
今更な話だが、今年夏、初めて携帯電話を入手した。ほとんど必要性を感じてこなかったのと、便利がいいというだけの理由で「右へならえ」式に従いたくなかったのだが、仕事の都合でやむなく “転向” した次第。
それで思い出すのが7、8年前のこと。「携帯電話は現代社会人の必需品。ましてマスコミ人たる者、時代の先端機器に通じていなくては」とたしなめられたことがある。七十路に達するその方が、出版用原稿をフラッシュメモリー一つに入れて持ってこられたので、戸惑ってしまったことを覚えている。
あの2機目が高層ビルに突入する光景に、不謹慎にも私は「アクション映画のようだ」と感じた。そして、事の真相が明らかになるにつれ、あの米国本土の攻撃を企てた者たちがいることを知り、『ラッシー』や『ローハイド』などを観て育った私の中にも、静かに崩れ落ちていくものがあることを思った。
あのような事件に出っくわした場合、私たちはまずTVやネットで、次に新聞や雑誌で、事態を把握しようとする。そしていくらか時間が経った後、最後は本に向かうのではないだろうか。現場の声にさらに耳を傾け、その体験の意味を求め、共有しようとし、様々にその背景が論じられる中、一体何が始まろうとしているのかを、自分自身の経験として確認し反芻するために。
最早、本は「遅れたメディア」と見なされている。けれどそれ──本──は、「一冊を読む」という孤独で能動的な行為を通してしか得られないものを運んできてくれる、“最古の知の箱船” だ。その箱船を介して出会うのは、原則的にはそれぞれの「誰か(書き手)と誰か(読み手)」である。その意味で本の世界は(マスではなく)ミニ・コミなのだ。
そうした時私は、9・11の後、「今ほど言葉の無力さを思うことはない」と言う私に応えた或る詩人の言葉、「『聖戦』に『正義』、それらもまずは言葉の問題だよ」を思い返そうとする。