■レイチェル・ワイズの瞳──映画『アレキサンドリア』 |
たしか『ハムナプトラ』(1999年)を先に観ていたはずだが、『スターリングラード』(2001年)で私はレイチェル・ワイズを“発見”したと思った記憶がある。そこでは、最初は採れたてのジャガイモのようだった田舎娘が、戦渦を潜る中、弾むような身体を持つ生身の女に脱皮していく姿が描かれていた。
レイチェルのことをずっと、いわゆる「美女」とは違うように感じてきたのは、あのえらの張った顎とやや垂れた目のせいだろうか。ただし、今更私が言うまでもないことだが、どこか欠点めいた部分を持つ人の方が、何故か気になる。ドラマの中でとりあえず名を持たない群衆中、いつしか忘れることのできない存在になっていく、といったような意味合いで、レイチェル・ワイズほどキャラクター性の幅を示すことのできる女優は少ないのではないか。
そして、この『アレキサンドリア』において、彼女は見違えるほど、まさに完璧な美と知性を兼ね備えた大人の女性として登場する。

舞台は4世紀、古代ローマ帝国末期のエジプト・アレキサンドリア。アフリカ北部の俯瞰図から始まった画面は、どんどん急降下していき、私たちは猥雑なアレキサンドリアの街に投げ込まれる。複雑な街路と建築物、お祭り騒ぎのような喧噪。すでに私の胸は高鳴り始める。
アレキサンドリアには古代世界の7大不思議の一つとされる図書館があり、図書館長を父に持つ天文学者・哲学者ヒュパティアがレイチェルの役。信念の女性だ。
時代はまさに、キリスト教が古代ローマ帝国の国教となった頃で、勢いを得たキリスト教徒は異教や異端を迫害し、「自由」と引き替えに改宗を迫る。キリスト受難の時代を描いた映画はあっても、キリスト教が(相当な乱暴なやり方でもって)「世界宗教」となっていく一過程をドラマ化した作品は珍しいのではないか。
キリスト教徒は遂に、自分たちの神に跪かず、「真実」にしか仕えないヒュパティアを追い詰める。彼女は言う、「暴力で押し付ける信仰を信じろと?」。
ラスト・シーン近く、キリスト教の暴徒に取り囲まれてヒュパティアは真裸にされる。暴徒の中に紛れ込んでいたのは、その時点では自由の身となって離れていたものの、長年彼女に仕え慕ってきた奴隷ダオス。文字通り絶体絶命のヒュパティアの窮地に、一計を案じたダオスが取った“非情”な行動──。それは、自分自身の手でヒュパティアの命を絶つことだった。おそらく、辱めと末期の苦痛からかつての主人=愛しい女性を解放するために。
裸身を縮こまらせるヒュパティアを背後から包み込むようにして……ダオスはその口を静かに塞ぐ。最初、自分の身に何が起ころうとしているのか分からないようだった(私もそう)ヒュパティア。その大写しの瞳が、最後にフッと閉じられる。すぐそばには、この世のものと思えない苦渋を湛えたダオスの顔。
全くのアンチ・ハッピーエンドの映画だが、少なくともこれほど悲しくて美しいシーンは稀だろう。
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以前、映画『キングコング』(2005年)について知人と話をしていて、彼女の高校生だったか大学生だったかの息子さんが、「何故、ナオミ・ワッツ(これも私の好きな女優だ。そしてやっぱり、「見るからに」の美女ではない)がヒロイン役でなければならなかったか、あのタップ・ダンスのシーンでよく理解できた」と語ったと聞いた。観た人は分かるはずだが、これは至言だ。(映画についてこういう会話ができる母子の在り方は素晴らしいが、惜しくも彼女は、昨年10月に56歳で亡くなった)
それになぞらえて言うと、あの中空に向けて大きく見開かれた瞳は、一瞬にして人の世の悲しさと儚さを映し込んでしまうものであり、だからこそ(あの大きな、垂れ目の)レイチェル・ワイズが選ばれたのだと私は思う。