■同窓会における、記憶喪失のリハビリ・レッスン |
新校舎も初めてだし、会場に充てられた体育館にも今回初めて入った。整理券番号から察するに、1000人以上居たのかな。
当日配られた「津苑会報」第55号によると、小倉西校は、1898(明治31)年に小倉高等女学校として開校、1947(昭和22)年小倉女子高等学校、1949(同24)年現在の高校名に改称、男女共学が始まった。今回、米寿(88歳、高女40期生、1939年卒)と喜寿(77歳、高女51期生/高校4期生、1952年卒)を迎えた出席者に対するお祝い行事も組み込まれていたが、喜寿で初めて男子卒業生が登場、それ以上はすべて女子。
この日も前列に居並ぶのは「小倉高女」卒業生、さすが皆さん矍鑠とされていた。当然ながら私たち高校23期生(10人程参加)なんぞはまだひよっこというところで、テーブルも演壇からだいぶ遠い所にあった。
後で、「津苑会報」掲載の「喜寿名簿」を見ていて、その人数を数えてみたくなった。総人数398、その内男性と思しき人49(12.3%)。さらに、末尾に「子」が付く女性名の多さが気になったのでこれも数えてみると、349人中276人、79%であった。流行と言うべきか、当時の常識と言うべきか。

元々私は、こういった会合についてはあまり気乗りがしないほうだ。儀式張ったことが好きでないのと、つい昔話をしてしまいそうな機会はなるべく避けてきた(誰しも向かい合いたくない過去がある)。名刺交換会めいた集まりも苦手。つまり、偉そうにも突っ張ってきた。
だが、この齢になって昨年新しく会社を興した身としては、これまでの自分自身及び生き方を総点検してみる必要があるだろうし、改めるべきところがあれば変えていかなければならない──もっと直截(ちょくせつ)に言ってしまえば、これまでやったことのない物事には積極的に首を突っ込んでみようと、このところ思ってきた。
そこに降って湧いた(?)のが、同窓会の福岡支部(他は東京、中部、関西に支部あり)総会の話。今年は私たちの学年がその当番期(卒業後40年で巡ってくるようだ)とのことで、昨年の会にたまたま出席したらしい同期の二人(ちなみに福岡市在住の同期生総数は十数人)が“自動的”に幹事役を振られたと聞いたことから、なんだかほっとけなくなってしまった(それに、そろそろいくらかは「社会の役に立つ」ようなこともしなければ、という気持ちもあった)。
ならば本拠地・小倉の総会を覗いてみようということで、この日の初参加となった。
福岡支部総会は10月1日(ちなみに昨年の総会の日、私は引っ越し・事務所作りの真っ最中で、せっせと机を運んでいる時に小倉よりの“遠征組”から「二次会だけでも来いよ」との誘いの電話が掛かった)。折角関わるのなら、できたら出席人数も増やせないか、何か少しでも目新しいことができないかなどと思っているが、さてどうなることやら。ともかくも、今度は土曜日、それが嬉しい。
*
総会後の懇親会が終わったのが、まだ2時半。当然の如く街に繰り出そうと、二次会場の手配その他テキパキとしている2年後輩のグループに、私たちは紛れ込ませてもらうことにした。
昔話に花が咲いた宴会の詳細は省くが、感心したのは、みんなの記憶力の良さだ。特に地元にそのまま住んでいる人たち。あんなこともあった、こんなこともあった……。では、私はこれまで一体何をしてきただろうか。何を覚えているだろうか。
生来の気性から負け惜しみを言ってみると──記憶というのは反芻を通して初めて「過去化」される。その際有効なのは、一つの体験を誰かと(できれば繰り返し)語り合うことであり、その点で「地元に居た人間」は強力な条件を有している。
長い時を経て、いつしか一つ一つの過去は統合されて物語(ファンタジー)を構成していく。物語は勿論、逃げるようにして故郷を立ち去った人間にも、殊更な理由がないにしろ転々とさすらってきた人間にも、不可欠なものだ。そして、“そこに”ずっと居た人間とほとんど居なかった人間とが、例えば数十年を経て再遭遇する同窓会という場所は、銘々が持つ互いの物語を交わらせ、新たに協同的なものを紡ぎだしてゆけるかどうかに懸かっているように思う(ちょっと大上段)。
──言葉や哄笑や幾度もの乾杯が交錯する場で、私は次第に“記憶喪失”のリハビリ・レッスンを受けているような気になってきた。
*
昼酒はやっぱり堪える。這々の体にて三次会場で退散(後で聞けば、他の連中は五次会まで行ったとか。ちょっと度が過ぎないか)。
振り返れば、「記憶」について考えさせられる一日だった。福岡に戻る高速バスの中でも意識は鮮明なつもり、だった。後でデジカメを調べると、バス車内から夕暮れ空の鮮やかな一瞬を映した二齣があった。この光景に心動かされるほどには意識を保っていた……だが、撮影したことは記憶になかった(きっと撮影後、居眠りしたのだろう)。
記憶に揺るぎがなかったのは、天神までの車中、わが母校の校歌(島田芳文作詞)の一節が頭の中を静かに駆け巡っていたことだ。
「強く正しく 美はしく……」
こういう定型表現は、胸の内に根深く棲み着いてしまい、時として鑑(かがみ)となる。私はこの日、決して酒に強くはなかった。正しい振舞いばかりで通したと言える自信もない。だが、少なくとも「美はしい」ものだけは見たように思う。
