■第7回「竜一忌」 |
中津文化会館小ホールは既に満員だった。配られた参加者名簿を見ると、全国から115人が来中、主催の「草の根の会」25人と合わせれば140人が集ったことになる。
冒頭、松下さんの盟友・梶原得三郎さんが「何故か、一向に減る気配がない」と挨拶されたように、参加者は減るどころか年々少しずつ増えているようだ。梶原さんは毎年の如く「本当は、もう止めたいのだが……」と言われるが、こんな会は珍しい。
「原発」の見直しが言われ始めた状況下、松下竜一の読み直しがなされていくような気がした。

この竜一忌、毎回、全体テーマが設定され、講演者が招かれている。今年のテーマは「『記憶の闇』と『狼煙を見よ』」(いずれも松下さんの作品名)。
『記憶の闇』は甲山(かぶとやま)事件(1974年、兵庫県西宮市の知的障害者施設・甲山学園で園児2人が死亡)を取り上げたものだが、今回、この事件で被告人にされ、1999年に無罪を勝ち取られた山田悦子さんが出席、「甲山事件の当事者として」という話をされた。「私はかつて、社会党と共産党の違いも分からないほどのごく普通の女の子でした」と山田さんは語られたが、25年間冤罪と闘われた方の言葉は、やはり重い。
次に、元朝日新聞記者でノンフィクション・ライターの田中伸尚氏による「明けやらぬ朝──『大逆(たいぎゃく)事件』の百年」の講演。田中氏は昨年、『大逆事件──死と生の群像』(岩波書店)を刊行、この竜一忌開催直前に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞されている。
2時間近くに及ぶ田中氏の講演中、最近の学校教科書には大逆事件のことに触れたものは一冊もない、という発言には、会場全体にどよめきが広がった。日本近代史の中で「大逆事件」を学ばない(即ち幸徳秋水などのことも知らないわけだ)ということ──それは「国家(権力)に抵抗・反逆する」という、民主主義の根幹である思想の歴史的な文脈(継承)が根絶やしになることではないか、と。
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【私が、彼らの遺族やその周辺をめぐる旅──それを私は「道ゆき」と名づけた──を少しずつ始めたのは一九九七年ごろからだった。連座させられた人びとは、程度や思いに差はあったが、また当時の社会にあっては少数者であったけれども、戦争に反対し、荷担しないという生き方を貫き、宗教者として被差別者に寄り添い、どうしたら平等で自由な社会にできるかを思索し、国家・天皇と個人の関係はどうあればいいのかなど生きる個人としてののっぴきならない問題と取り組み、悩み、突き当たり、時に性急に生きた人びとだった。彼らが社会主義や無政府主義を通じて気づいたこれらの問題は、文学や思想のテーマでもあり、ジャーナリズムの課題でもあった。そしてそれらは、現在の問題としてもある。
(略)「大逆事件」は国家が個人の思想──自由・平等・博愛──を犯罪として裁き、いわば心の自由殺しの事件だったことは、すでに知られている。私もそれを前提にして旅をし、書いてきた。けれども「大逆事件」は、国家にとって都合の悪い思想を抑圧するために、一つの出来事をきっかけにウソの物語を真のようにし、合法的に市民の肉体まで抹殺した荒々しい事件だったというところまで「知っている」といえるだろうか。国家が時おり見せる「虚偽性」と「暴力性」の果てに「大逆事件」があった──。大石や森近らの獄中書簡などを読むと、彼らは国家のそんな性格を見抜いていたのではないか。そうすると「大逆事件」を、過去の思想弾圧と捉えるだけでは十分ではないように思われる】
(『大逆事件──生と死の群像』より)
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講演終了後、そのままの会場で、会から用意された弁当を開いての(会場の規則でアルコール抜き)、リレートーク付き懇親会が行われた。私は、帰宅するまで鮮度は大丈夫だろうかと気にしつつ、弁当を手にして早めに退出した。
外は雨脚が一段と強まっていた。ひどく重たいけれど、収穫のあった会だった(新しい企画の話もまとまった)。
博多までの特急電車の中、手持ち無沙汰だったので弁当を開いてみた。中途半端な時間の食事、とりわけアルコール抜きの夕食というのが、私には世の中で一番我慢のならない状況なのだが、車海老の塩焼きはともかく、中津名物の鶏の唐揚他、何気なく口に入れて驚くという具合でどのおかずの味付けも実に美味しく、ちょっとつまみしているうち、結局お茶だけで全部食べてしまった。
「田舎なので、大したものはありません」風を装いながら、このような弁当を用意するなんて……改めて(松下竜一ゆずりの、と言うべきか)「草の根の会」のさり気ない心配り、そのしたたかさに思いを致した。「人を迎える」ということに、どれほど心を砕いたらいいのか──これは人世の変わらぬ難問だ。
それにしても、弁当の写真を撮らなかったことが悔やまれる。