■高田茂廣先生遺稿・追悼文集刊行会 |
9月11日は、高田茂廣先生の3回目の命日。この日付を忘れることはない。
この春から有志にて「高田茂廣先生遺稿・追悼文集刊行会」を立ち上げ、ご賛同いただける方並びに醵金を募り、追悼文を募集してきた。言い出しっぺは「かぼちゃ堂」の首藤さんと私で、私は事務局を担当している。
今日が原稿提出の締切だったので、ここ数日、郵便やEメールで原稿が届いたり、「もう間に合わないでしょう?」といった電話も何本か入った。編集にまだ少々日にちがかかりそうだし、できるだけたくさんの方々の文章で先生の人となりと業績を伝えたいので、今からでも追悼文を書いていただけるようお願いしてきた。
本当はもっと早く──できたら一周忌までに刊行というペースで──取りかかるべきだったが、私自身も仕事に追われていただけでなく“独立”問題を抱えていたので、中途半端な体制で始めるわけにいかず、結局今年に入ってスタートとなった次第。
遺稿・追悼文集の中心は高田先生の未発表(応募したが落選)の中篇小説「道なお遠く」、追悼文はおそらく30人程になりそうだ。
ここに、その「趣意書」及び亡くなられた少し後の2009年10月、「西日本新聞」の読書面コラム「版元日記」に出した拙文を掲載しておきたい。

能古島の高田先生
出会いは30年前、当時赴任されていた北崎小学校(福岡市西区)の百年誌の制作をお手伝いした時だ。以降、近世期の宮浦(同西区)の商人が遺した日記の校訂本『見聞略記──幕末筑前浦商人の記録』(8年かかった)、『浜辺の子供たち──学校が遊び場だったころ』など7冊の本を一緒に作った。
全くの下戸だが煙草とコーヒーを愛飲、それらを抜きに高田先生の佇まいを描くことはできない。そしてあの茶目っ気に満ちた哄笑。誰に対しても分け隔てされなかったが、かつての教え子だけは特別で、度々話に出てくる面識のない人々に私は嫉妬した。
「小学生に縄跳びで勝てなくなったから」と52歳で教壇を去られたが、故郷の歴史を熱く語り綴るその視線の先にはいつも教え子たちがいた。「若い人たちに郷土への誇りを持ってほしい」と。その意味で先生は最後の“郷土史家”だったと私は思う。『玄界灘に生きた人々──廻船・遭難・浦の暮らし』(海鳥社)はその集大成である。
9月11日、檀一雄の最後の隣人であり、後半生をかけ、海に生きる人々の足跡を追い続けたもう一人の火宅の人、海事史研究者高田茂廣氏が逝かれた。私の手元に「新能古島物語」の未完原稿を残したまま。
