■龍秀美さん、一丸章を語る |
龍さんは7年をかけて『一丸章全詩集』(海鳥社、2010年)を編み、私はその出版のお手伝いをした。全詩集を出したことで終わらず、その後も龍さんは、講演やエッセイ、そして未生だとしてもおそらくはご自分の詩作品で、師である一丸氏のこと、その詩の到達した世界を明らかにしようとされている。→『一丸章全詩集』について
以下、自分のメモと配られたレジュメから、私なりに龍さんの話をかいつまんでみる。
*
本来、「詩」というものは自己の精神を支えるためのものである。日本においてはそういう意識が薄かったと言えるが、東北大震災の後、いわば心の支えや強さが求められることで、これからは言葉に対する感覚が変わり、詩も変わっていくのではないか。
現代詩における言葉の問題は「象徴」ということに集約される。象徴とはすなわち美意識の問題であり、「みんなに共通な美しさ」を明らかにしていくことである。そこに、「生きるための詩」が必要とされ、「人間再生の力」が唱えられる理由がある。
この「人間の再生」ということこそ、一丸章が語り続け、求め続けていたことであり、私の中でも、今ようやくそのことの意味合いが腑に落ちる。
一丸の詩は口誦的なリズムを大事にすることもあって、特に第一詩集『天鼓』に対しては、浪花節や講談など「語り物」という日本の伝統につながろうとした「古くさい詩」という論評もなされた。
しかしながら、「自分だけの真実」を摑むための精神の冒険が「詩」である。そこでの「真実」とは、「(近代的な)自我」であり、表現における「文体」である。一丸の文体は、単に伝統に還るためでなく、言葉の飛翔力を縦横に駆使して「主体」を物語るために獲得・構築されたものであり、その意味で一丸の詩は紛れもなく現代詩なのである。
7年後に刊行された第二詩集『呪いの木』収録作品には、現代詩らしい行分けが施されている。そこでは、病、愛憎、世界、歴史、宗教など大きなテーマが取り込まれ、現代の象徴詩として、次々とめくるめくようなシンボルの「変身」が実現されている。
総合して言うなら、一丸章の詩は、明治以降の近代詩の流れの中で「前近代的」とされ、なお伏流水のように脈々と流れている日本人の心情に分け入る「普遍的私詩」と言えるのではないか
象徴(シンボル)というものが急激な変化にさらされている現代だからこそ、今後、より「詩」が重要な役目を果たしていくと考えられる。
では、危機の時代に「詩」には何ができるのか。美しく、面白く、真実を感じさせなければ詩ではなく、その思想も伝わらない。近代的な精神の中に民族的な共感と抒情(心情)を感じさせること、それは新しい伝統としての民族の共通感覚となる。本来の自分に戻ろうとすること、人間のあり方や社会のあり方を探っていくこと──そこに「生き残るための詩」の役割があるのではないか。

[会場風景の撮影を禁止されたので同館発行「文学館倶楽部」の表紙を掲げる]
*
きっと、90分間では意を尽くせなかったはずだが、さすがに長年そのそばに居た方にしか描けない一丸章論だった。私も、ずっと伺ってきた話の総まとめをしていただいた気がした。
前項・岡田哲也さんの出版祝賀会に続き、半月の間に二度、私は詩人のパフォーマンスに立ち合った。岡田さんはお洒落でお茶目だったし、龍さんもとてもチャーミングな方だ。ただし、時たま、目の前の相手を見据えたり少し遠くを眺め遣る目つきでおそらくは言葉と思考の筋道を探していると思われる際には、とても怖い顔をされることがある。この夜も、連歌や連句の如く、その場でそれらをたぐり寄せていくライブをしっかりと見せていただいた。また、一丸章の詩を三篇朗読されたが、あ、龍さんもこんな声を出すんだ、という珍しい機会でもあった。
言葉にどれほどの力があるのか──それは編集者としての私の課題でもあるが、改めて、「詩」の言葉が持つ意味、何十年もの間そこに執着し続けることの凄さを思わせられる一夜だった。
●なお、この「赤煉瓦夜話」シリーズ、次回10月20日は、上記『一丸章全詩集』編集にも協力してもらった友人・創言社編集人の坂口博氏による「せんぷりせんじが笑った!」という催しあり。幻灯「せんぷりせんじが笑った!」上映と上野英信についての講演があるとのこと。