■もうすぐ創業一周年 |
多々想いはあるが、来週は二つの出版パーティー、それに10月1日当日には、私も当番年幹事に加わっている高校同窓会の福岡支部総会(→「同窓会における、記憶喪失のリハビリ・レッスン」)があるので、満1年の感想を書き付けている時間なんぞないだろう。
1週間程前、何度か取り上げたブック・ガイド誌『心のガーデニング──読書の愉しみ』の7・8月号(NO.118)に近況を寄稿したので、それを転載しておきたい(少し加筆)。内容は、これまで記してきたことと多少重複がある(それに、いくらか気分がすぐれない時だったのでトーンがやや↓か)。
**
「またこのごろやしのばれむ」時まで…
今これを書き始めている時点ではまだ半月程残っているが、出版社を作ってほぼ1年が経った。9月末までにもう2冊出来上がるので、それも併せると11冊刊行となる。前回(連載18「小社事務所内ミニ展覧」)では7カ月目の話を書いたので、ここではその後のラインナップから歴史と文学をめぐる2冊について書き留めておきたい。
*
まず、多方面で取り上げていただいたのが、谷川佳枝子著『野村望東尼──ひとすじの道をまもらば』(6月刊)。本書は、野村望東尼の出自と結婚、歌の道に入った経緯に始まり、社会や政治に関心を持つきっかけとなった京坂への旅、帰藩後の勤王活動の内実、流刑地姫島での暮らし及び高杉晋作の手配による救出経過、その後終焉に至るまでの全生涯を、当時の社会・政治情勢を踏まえつつ、原史料にあたり文献を精査し、その足跡を克明に辿ることで明らかにしたものだ。
とりわけ、日記や手紙などを丁寧に読み込み、折々の歌の背景を説き明かすことで、幕末期に生きた一女性の実像にどこまでも迫ろうとする著者の姿勢が、読みやすい文章と相俟って、読む者を先へ先へと導く原動力となっている。
谷川さんは1981年、26歳の時に望東尼の歌集『向陵集』の校訂本を刊行、以後も地道に望東尼研究を続け、まさに30年後、その全体像を一書にまとめられた。広い意味での史実と文学的表現にまたがる世界を扱うにあたり、著者自身の人生の年輪が見事に生かされているところも、本書の大きな魅力だ。
出版に際して川添昭二九州大学名誉教授からいただいたご祝辞を抜粋したい。
「本書からは実に多くのことを学びました。本書の成立と成果そのものが、私にとっては教訓的ですが、歴史学と文学の融合化による高く広い歴史世界の構築を見事に示しており、著者がその点を言挙げしていないだけに、深い感銘を受けました。卑近なことのようですが、家庭内における文化伝達、家庭教育の重要性なども考えさせられました。/このような形での地域文化の地道な掘り起こしの重要性についても深く学びました。このような作業こそが、福岡ないし日本の文化力を高める根源的な営みではないかと、つくづく考えさせられました」
これが、小社出立への(過分な)餞のお言葉でもあることを、私は忘れることはない。

*
『憂しと見し世ぞ』(8月刊)は出水市在住の詩人・岡田哲也さんのエッセイ集。岡田さんは、詩のみならずエッセイや物語を書き、さらに寺社などの建築デザイン、広告コピーやシナリオまで手掛けるなど、特に地元鹿児島では総合的な文化人として知られている。
ラ・サール高校を経て東京大学に入学、大学紛争真っ盛りの中、日本浪漫派の作家・評論家である村上一郎と出会い、後にその活動を手伝うことになる。本書は、その村上一郎との関わりを通して時代及び自己の形成を綴った中篇「切実のうた 拙劣のいのち」を中心に、近年各紙誌に発表されたエッセイを集録した。
その文章に一貫しているのは、出水市の中でも度々転居していることからも窺われるように、「定点」を求めながらも「この世は仮のすみか」だとする著者の、彷徨い屈折しつつなお人一倍家族やふるさとを想う心持ちである。そこに、今では想像するのが難しいが、兄弟姉妹14人という大家族の中に生まれたこと、そして鹿児島(薩摩)という土地の風土性が大きく翳を落としているように私は思う。
地域の多様性や活力が根底から問われている現在、若き日の懊悩や遍歴そして師との出会いを糧にしつつ、40年という年月を郷里で過ごし、そこで様々な表現活動を展開してきた著者からのメッセージには、改めて地域や風土の持つ“色合い”と表現の拠って立つ背景について考えさせられるものがある。
「あとがき」から私の好きな部分を抽出したい。
【田舎暮らしをしながら、私は「どこに住もうと 死に場所がふるさとだ」とか、自分は定点の旅人だとほざいてきた。あるいはかつての田舎住まいの勧めやUターンといった風潮は、私にはいささかかたはら痛いものだった。
この世は仮のすみかだ、どこに住んでも地獄、月日は百代の過客だというのは、私の好きな考え方だ。そして私はこの世を、「主」というよりは「客」として、過ごしてきたような気がする。といっても刺客にはなれなかった。食客である。しかも中心よりはへりで生きるのが、いつしか習い性となっていた。
まっすぐな大道より、脇道がいい。道を極めるよりは、無道、時には獣道だっていいさ。なあんて、本当は、シャカリキに頑張るのが苦手だったのだ。努力して頂を極められぬことが、報いられぬことが恐かったのだ。わが闘争は、いつしかわが逃走となった。それを孔子ふうに「とらわれず わが旅に一生を送らむ」などとうそぶいてきた。
しかし、私は田舎わたらいで、蕨でも採って清貧に生きるどころか、人一倍諸事にとらわれ、情実にわずらわされ、とても悟りすますことなどできない自分を思い知らなければならなかった。きっと根太の懊悩が、マグマのように煮えくりかえっている男なのだろう。さりとて、再び都へ、落ちのびたくはない。なんのことはない。ブレ続け居直りづくめの一本道だった。】

残念ながら、今の私は単なる紹介文以上のものを書けない。30年、40年という歳月が醸成していくもの、その時その場所での様々な思いや出来事、そして見果てぬことになるかも知れない夢や欲望……。著者となる人やその原稿と出会った時から、本として世に出すまで──それも一つの“旅”であり、そこにもまた、多様な風景・情景や移りゆき堆積していくものがあって、これから果たして何処まで行けるのか未だ薄明の中だが、ただ一冊、一冊の本が導いてくれる細道を、試行錯誤を重ねつつひたすら進んでいくしかないのだろうと思う。