■バッハ平均律のような金山行 |
脊振山地金山(かなやま)、967.3メートル。これまで20回以上は登ったが、その内おそらく半分は単独行。つまり福岡市近郊では私の一番好きな山だし、今回のが一番好きなルートだ。
前夜帰宅が遅かった上に2年振りの山行きなので準備に手間取り、自宅を出たのがようやく10時。
国道263号多々良瀬バス停から山側へ入り、「千石の郷」(該当者がよほど多いのだろう、敷地入り口に「登山者は無断で駐車するな」の立て札あり)を回り込んで、坊主ケ滝手前の登山口に到着。ここまで40分。
林道脇に車を駐め、足慣らしをする間もなく杉林の中の斜面に取り着く。またここに来たな、と思いながら足を運ぶ。
ここから尾根筋の小広場に出るまでの30分は、ひどい傾斜ではないがほぼ登り一辺倒。もし、ここで音をあげるようなら、そもそも今の自分には山を云々する体力がないことを思い知るしかない。
尾根筋からは谷を囲む自然林の中に入り、次第に沢伝いの小道となる。くねくねと長いが、景色に変化があり、飽きることがない。かつて幾度も、下山時に疲れた脚を浸した大岩が転がる水際も、今日はさっさと遣り過ごす。

沢から離れると、落ち葉がびっしりと敷き詰められた森の中へ。傾斜も緩いし下草が少ないので、周囲がよく見通せる。辺り一面のひょろひょろとした樹形のせいなのか、いつもなぜだか(違う星に来たように)不思議な気分になる場所だ。
だいぶ以前の6月、ここでヒグラシの大合唱に包まれたことがある。カナカナカナカナ……などというかそけき声ではなく、今まさに飛び立つUFOの真下に居るような甲高い金属音。あれほど群れて鳴く蝉だとは知らなかった。中村草田男に「会へば兄弟(はらから)ひぐらしの声林立す」の句がある。
道の右手が次第に削られてきて、急にテンポが変わったような登りが始まる。ここまで、小広場から40分。
以後、尾根道となり、これまでとは違う開けた景色が広がってくる。何度かアップ・ダウンを繰り返す。よじ登る箇所もあり、岩や小幹や根を掴んで体を引き上げる。風当たりの強い場所に居着いた木は、枝や根が固くて“強情”だ(この場合はだから安心なのだが、人間と同じか)。
喘ぎながら、山頂下の分岐点に。ここでようやく、いくらか秋の風情を楽しむ。

5分で金山の頂。尾根道の始まりから、ここまで35分。20年程以前はほとんど展望がなかったが、その後伐り開かれて、特に南側の見晴らしがいい。先客が3組。あろうことか、凍らせた缶ビール(これは350ccに限る。500ccだと破裂する)を持参し忘れたので、そそくさと食事を済ませる。このことでは、山での楽しみが3割減だった。

下山には90分を要した(車を持つ同行者がいる場合なら、あらかじめ2カ所に分けて駐め、花乱の滝へ下るのがベスト。飽きるほど沢の傍を歩くので、夏場がお奨め)。
金山のこのルートでは、最初は変哲もない杉林の中の登り、次に水の表情や森林浴を楽しむ長い沢伝い、そして小ピークを幾つも越える尾根道と、性格の異なる3パターンの道をほぼ等分に体験することになる。
何度赴いても、いつの季節でも、それなりに楽しめる。そしてその都度、今の自分の「山に向かう心身」を試されることになる。その味わいはまさに、「初学者のために、または熟練者の楽しみのために」という意味の注記がある、J・S・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」のごとく(ちなみに私が好きなのはヘルムート・ヴァルヒャ盤)。