■「われわれの文化は核廃棄物などではない」と佐々木中は言った |
私自身、佐々木中(あたる)という書き手の名を覚えたのは、ごく最近だ。特に評論や思想・哲学に関心のある若者には知られている人らしく、このほど書店パートの仕事が決まった友人によると、人文系の固い書棚では一番目立つ所に平積みされているとのこと。
プロフィールは「1973年生、作家、哲学者。東京大学文学部思想文化学科卒業、東京大学大学院人文社会研究系基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了。文学博士。現在、法政大学非常勤講師。専攻は現代思想、理論宗教学」(ブックオカの資料)と、かなり華々しい。
その著書を読んだこともない今人気の書き手が、一体、肉声でどういうことを語るのか──私にとっては新鮮な経験だった。
ひょうひょうと壇上に現れた佐々木氏、その出で立ちはジーンズ&スニーカーに例のベレー帽(私はこれが駄目)。そして、のっけから「オレ」で始まる語り口(これも駄目。大学生相手の仕事の習い、と見せかけた作戦か)。
以下、もはや記憶もだいぶ薄れ“文脈”を追うことはできないので、メモした発言を順不同でまとめてみる。
●マスコミから「3.11以後をどう考えるか」という問いかけをたくさんもらったが、「3.11以後」なんてものは無い。[これでは意味不明か。失礼]
●3.11[9.11ではなく、間違いなくそう言った]以後、我々は「テロ」と戦っているのである。「(議論するより)まず復興だ」という言説は現状追認のイデオロギーであり、テロの片棒をかついでいる。
●誰が、何を、どこまで変えたのか、その責任を曖昧にしてはならない。
●そもそも原子力の平和的利用なんぞは存在しない。原発は初めから原爆を作るためのものだった。
●原発事故とその後の混乱で明らかになったのは、日本人は「エコノミック・アニマル」なんかじゃなかったということ。
●現在、恐ろしいのは「死の緩慢さ」であり、それは何に似ているかと言うと、「ただ日常を生きている緩慢さ」とである。
●日本には門閥制度がしっかりとある。そして、門閥政治は女性の交換で成り立っている。
●「恥辱」と「屈辱」はまるっきり違う。
●我々はなめられているよね。怒りを持て!
●自分がやってきたことを無力だと言いたがる人間は、特権(有力)をめざしてきたのではないか。ブルーノ・シュルツもパウル・ツェランもエマニュエル・レヴィナスも、決して「文学は無力だ」とは言わなかった。
●(3.11後の)われわれの文化はそれでも「核廃棄物」などではない。
佐々木氏は「語る」行為(講義でも講演でも)自体を紛れもないパフォーマンスと捉えているようで、話の途中も立ったり坐ったり、独り言のように聴き取りにくい時があるかと思えば、突如芝居の台詞のごとく声を張り上げたりで、1時間程経った時点で「先程から苦々しい顔をして聴いている人、なんなら帰ってもらっていいよ。オレが金を返すから」と言ってのけた場面では、会場は静まりかえった。
あまり行儀が良いとは言えない講演者ではあったが、講演最後にはベレー帽を取り、深々とお辞儀をした。その丸刈り頭は、「反逆」を求道する若き僧のものであった。
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単純な感想を幾つか。
まず、どうやら佐々木氏は「(元か)ラッパー」のようだが、かつての「長髪/ロック」というのと、いわば「反抗」(現今は「反体制」とまでは言わないだろう)のスタイルも随分と違っているのだな、ということ。そして、あの念仏のようでもある饒舌な歌詞とパウル・ツェランら詩の世界に身を浸してきた人らしく、言葉の連想・押韻的な豊かさと挑発性。勿論、哲学にも通じ、語学も何カ国語かできるようだ。
一方、話の中に古井由吉やいとうせいこう、斎藤環らの名前も親しげに出てきて、既にしてきちんと「文壇・論壇」中に席を得ていることも分かった。最近売れているらしい『切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』(河出書房新社)はロング・インタビューに基づいているとのことだが、37歳にしてインタビューを本にできる書き手はそうそういないだろうし、人文系分野でにわかに脚光を浴びているのも宜(むべ)なるかなと感じた。

講演を聴いて後、遅蒔きながら上記話題書を購入(まだ数ページ)。彼の著書はみなそのようだが、やはり装丁が今風にして美しく、格好いい。これが肝心なのだろう。そして、めくるめくような概念の乱射の中、所々スナイパー用の銃眼のように埋め込まれている主語は、折り目正しい「私」だ。
私が“リアル”に遭遇したあの佐々木氏が、美しい本の中で「私」で語っていること──間違いなく元のしゃべりでは「オレ」だったはずで、そもそもそこから入ってしまった私が──、これは何か違うんじゃないかと、ある種「緩慢」なすり替えめいたものを感じたとしても、それは詮無いことか。