■「あなたは私の青春そのもの」──60歳を超えた山本潤子 |
高校時代に一度、「赤い鳥」のコンサートに行ったことがある。今の時代では想像することすら難しいが、当時多くの高校では、コンサート行きなんぞは不良のすることというわけで「禁止事項」だった。それでもみんなグループ・サウンズ公演に行って騒いでいたようだし(公演中に気絶した、なんて話もあった)、私はもっぱら(時々はデートも兼ねて)フォークソングのコンサートだった。五つの赤い風船、岡林信康、泉谷しげる……。陽水を知るのは、まだ少し先だ。
受験期に差し掛かっていた私は、自分より幾つか年上の人たちが、コンサート・ツアーで全国あちこち自由に行けることが、とても羨ましかった。
赤い鳥のコンサートは、あくまでもハーモニーを重視していたので、個々人の華やかさには欠けていたが、その集団性がどこか大人っぽく感じられた。要するに生真面目で暗かったのだが、全体にそんな時代だった。ただし、あの人の声だけは耳に残ってしまった。
何でもネットですぐに調べられるという時代ではなかったので、山本潤子という個人名を知るのは、それからだいぶ経ってのこと。「卒業写真」、「フィーリング」、「冷たい雨」……。その時期、それは──あの奇天烈な声の──荒井由美を知るということでもあった。

私個人の節目節目にも、当たり前のごとく彼女らグループの歌が流れていたが、1994年「ハイ・ファイ・セット」解散後も長い間、彼女のボーカルをじっくり聴き込むのが、なんだか辛いことのように感じてきた。
あの、高いのか低いのか、硬質なのか温かすぎるのか断じるのが難しい、けれどどれほどの大合唱の中でも必ず聴き分けられる声──。あれほど際立っていながら、その場のすべてをねじ伏せてしまうというわけでなく、むしろ隅の方でこそその存在感を増すがごとき響きは、稀有なのではないか。
そして、その声の響きはいつも、忘れてきた何かを突きつけてくる──「自由な大人」になるために引き替えにしてきたもの、一つの夢を共に追い掛けた “同志” の呼び声、置き去りにしたり打ち棄ててしまった何物か……言ってしまえば、70年代。いやいや、そんなことを思うのはきっと私だけだろう。
60歳を超えた山本潤子は、実にいい顔をしていた。未だ尖ったものを残しつつ、自らの表情に彫り込まれたものをも愛しんでいる心持ちが窺えた。ユーミンの詞の先駆性は言うまでもないが、40年近くを経た「海を見ていた午後」を、自己の進境をも映す名曲として歌い直すことができるのはこの人ぐらいのものではないか。
山本潤子にはいつまでも、私より少しだけ前で、さらなる “大人” への道を歩んでもらいたいと思った。今なおこの国で、互いに「人ごみに流され…」ずに。