■『海と歴史と子どもたちと』刊行お披露目会寸描 |
出席者は、二人のご子息も併せ15人。高田先生より年長の秀村選三・佐々木哲哉両先生、それに遠路鹿児島から新森良子さんも参加された。11年振りに会う新森さんは、『見聞略記──幕末筑前浦商人の記録』(1989年)解読・刊行の同士でもある。
間に食事を挟み、全員にスピーチをしていただいた。それぞれに想いをこめた話をされたが、中でも、45年程前、西新小学校時代の教え児・柳川さんの話が感銘深かった。それは、小学生時代は相当なワル、高校時代は「不良」、卒業してからも進学も就労もせずに街を徘徊していたが、同窓会で高田先生に再会、「先生にならんか。おまえなら面白い先生になる」と言われ、「え、自分が教師?」などと悩んだ末、小学校教師になった、というものであった。
ちなみに柳川さんは、高田先生と出会った西新小学校を最後に、この3月、教師を退職された。早期退職(52歳)し海事史研究の道を進んだ恩師は、ここでもやはり(かつてのワルそうを、暗黙に)導いたのだろうか。
ワイワイと語り合い、結局、店に3時間程もいた。外はまだ明るく、川面では名物・シロウオならぬ春の光が跳ねていた。
以下は、私が出した追悼原稿。お急ぎでなかったら。
最後の郷土史家
初めてお会いしたのは三十数年前、当時赴任されていた北崎小学校(福岡市西区)の創立百周年記念誌の制作を担当した時だった。写真撮影のため一緒に校区内を回り、懇意にしている寺ではお茶請けとして出た「大徳寺納豆」を持ち帰りたいと追加所望するなどそのざっくばらんな性格と、渋い風貌に似合わずアルコールが駄目(けれどご存じのように煙草、それにコーヒーは手放すことがなかった)などということをすぐに知った。先生には既に『能古島物語』、『筑前五ケ浦廻船』、『能古島から』の著書があり、郷土史研究においても知られていた。
記念誌制作の合間、宮浦(同西区)の旧家が解体されトラックで運び出される寸前だった古文書類の中から、間一髪、個人の筆になる大部な記録を発見されその原稿化を進めている旨伺った。それは「見聞略記」と題され、当地で荒物屋をしていた津上悦五郎が、1840(天保11)年から71(明治4)年までの30年間、政治・外交・軍事・経済・気象・天文・民俗など多種多様な見聞を記した和綴じ全11冊であった。
情報の洪水の中で溺れ漂うしかない我々と違って、この悦五郎という人は、「黒船」のことから全国各藩の動静、その時々の米相場、ええじゃないか騒ぎ、自家に闖入した泥棒との問答まで、的確に情報を選択し自己の言葉で冷静に記録した。
400百字詰換算で1500枚近くあっただろうその書き起こし原稿の出版を引き受け、校正を重ね、本の形になるまで、結果として8年かかった。その間私は、史料を校正するための前提として古文書解読を習い始め、さらに、別な出版社を立ち上げることになり、手放すわけにいかないことからその仕事自体を持って出た。
校正期間中、先生一人では捗らないということで、週2回、私が能古島のお宅に出掛けて読み合わせ校正を行うことになった。数カ月通っただろうか、時間的に無理になってきたこともあって、新森良子さんに助勢をお願いすることにした。この助っ人は強力で、新森さんの“馬力”がなければ、『見聞略記──幕末筑前浦商人の記録』刊行までにはさらに歳月を要したことだろう。
船出したばかりの出版社において一冊の史料本にそこまで傾注することができたのは、宮浦という一地方の商人の記録が日本史レベルにおいても価値のある貴重な内容を持っていたこともさりながら、高田先生の人柄が大きく作用し、私は、ともかくこの人に付いて行こうと思った。どんな編集者にも“初めての著者”が現れるとすれば、私にとってそれは高田茂廣氏であった。
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先生は、「縄跳びで小学生に勝てなくなったから」と(ご本人の言葉通りに受け取っておきたい)、52歳で教職を辞し、福岡市立歴史資料館の嘱託となった。二足の草鞋から解放され、おそらく先生にとっては「人生最良」であっただろうその時期、資料館を訪ねる度に私は、近くの店で昼食をご馳走になりつつ様々なお話を伺った。まずは、先生にとって身近な人々との対話や論議、或いはその顚末であり、そのお蔭で私には「見知らぬ“旧知”の人」が随分とできた。きっと誰しもが互いにそうだったろうという形で、先生は人と人とを繫いだ。
とりわけ先生が熱を込めて語られたのは、郷土筑前の浦とそこで暮らした人々についてであり、単に「浦=漁村」ではなく、その仕事には漁業のみならず廻船や石炭の運搬、渡海船業などもあり、さらに福岡藩の浦の場合は玄界灘の防備と監視、長崎警備、朝鮮通信使の受け入れに関わるものなど、全国的に見ても重要な役割を抱えていたという内容であった。
先生がなされたお仕事の中心は海運史、とりわけ「五ケ浦廻船」の発見だろう。博多周辺は中世から対外貿易で栄え、17世紀の半ば頃には今津・浜崎・宮浦・唐泊・残島(能古島)という「筑前五ケ浦」が、藩米を江戸・大坂へと輸送する廻船業で活躍した。そしてそれが、度重なる遭難事故を第一の理由として没落してゆき、明治期の初めには海運世界から完全に姿を消すことになる。
人の世の栄華盛衰、そしてその残照──。「五ケ浦廻船」の根拠地の幾つかは、小学校教師として進んで「僻地校」を志願してきたと自ら言われる先生がまさに赴任されてきた地域であった。そのあたりに高田先生の、後半生におけるロマンティシズムの在処(ありか)が窺える。教師時代、子供たちから「泣き虫先生」と呼ばれたらしいが、その熱情とセンチメンタリズムに外連(けれん)味はなく、周りの人間を巻き込んでしまう茶目っ気に溢れた哄笑には、単に年月や経験では追いつけないものがあった。
誰に対しても遠慮も分け隔てもされなかったが、かつての教え子に対する想いだけは特別で、度々話に出てくる面識のない人々に私は嫉妬した。「我田引水ではいけないが、郷土史家と言われることに誇りを持ちたい」と言われ続けてきた先生にとって、一番の読者は教え子たちだったろう。教壇を去り海事史を中心とする歴史研究者となった後も、先生の視線の先にはいつも、「歴史」と「誇り」を語り伝える対象として教え子たち、そしてその地に根付いて暮らす人々がいた。そうした意味において、高田茂廣氏は最後の“郷土史家”ではなかったか。
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振り返れば、監修・共著を含めて、高田先生には『北崎小学校百年誌』(1980年)を皮切りに、『能古小学校百年誌』(85年)、『七隈郷土誌』(86年)、『浜辺の子供たち──学校が遊び場だったころ』(87年)、『見聞略記』(89年)、『福岡歴史探検 ①・②』(91・95年)、『玄界灘に生きた人々──廻船・遭難・浦の暮らし』(98年)、『福岡歴史散策』(2005年)など十数冊の出版──そして勿論、潮干狩りその他遊びが目的の能古島行──を通し、とても愉しい時間を過ごさせていただいた。
人は皆、二度死を迎える。一度目は自己の死、二度目はその人を知っている人の死。先生の最後の“旅立ち”は、私自身の新たなる船出をも促してくれた。逝かれたのは2009年9月11日。その8年前の同日、あの米国における事件は「“何かの終わり”の始まり」を告げるものだった。そして私たちは未だ果ての見えない“終わりの始まり”の只中にあるが、それでもなお、日々──「黒の舟歌」のように──舟を漕ぎ出すしかない。今でも次々と新しい命が育っているのであり、そうした子供たちの未来のためにも、大人こそが「遊びの達人」でなければならない──と、『浜辺の子供たち』に込められたメッセージはそういうことだったように思う。
(『福岡地方史研究』第48号〔2010年8月〕より転載、加筆)