■戦後を歩き続けた元兵士──山部英達氏 |
山部さんは1924年、福岡県筑紫郡八幡村(現・福岡市南区)生まれ。当日がちょうど89歳の誕生日とのことだった。
学生時代、陸軍に応召、砲兵としてソ満国境駐留中に敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留される。帰国後は再建された日本共産党に入党するも、党内対立のあおりで離党。戦後長らく貸本業などに携わる。
現在も月1回の「元気で学ぼう会」、「見て歩こう会」を主宰。1981年の中国・牡丹江行を皮切りに、これまでに海外旅行42回(内、中国が17回)。旅程のすべてを記録されていた。
山部さんはいつも、ステッキ片手にリュック姿。確か以前、天神や博多駅まで(8〜10㎞位か)ならご自宅のある南区檜原からいつも歩いて行くと聞いた。
5年間の抑留中、ソ連共産党員のなまけぶりに呆れ、これではだめだと帰還後、日本共産党に入党した話など、たくさんのエピソードがそのまま「昭和」の証言であった。山部さんのお話は8月発行の『福岡地方史研究』第51号に掲載。

*
歩兵は常時、咄嗟の時のために、方位を意識し遮蔽物を確認しつつ歩を進めるという。歩ける所ならどこへでも歩いて行く──山部さんは歩兵ではなかったが、おそらく戦後もずっと、兵士の精神を手放さず、自分の状況判断と脚力だけを信じて生きてきたのではないか。山部さんの口から国や時代への怨み言を聞くことはなかったが、70年近くもの間、自らの道を真っ直ぐに歩き続けて留まらなかった姿自体に、一貫した意思と命の本来的な自由さ、そしてそれらを奪うものの理不尽さとが表されていると感じた。
抑留前後の話を聞いている間、私は、二昔前に読んだ阿利莫二の『ルソン戦──死の谷』(岩波新書、1987年)を思い出していた(阿利氏は私の母校の教授で、講義も聴いたことがある)。
この書はフィリピン・ルソン島で敗残兵となった体験をつぶさに記したもので、今、内容はほとんど記憶していないが、ただ一つだけ頭に焼き付いている事柄がある。
まともな食料もなく、山中を彷徨うしかない極限状況下で、何が一番貴重だったか──。まずは食料を調達しなければならないが、草木をかじり川魚を喰らうにしても必要不可欠であり、また互いのなけなしの持ち物を──亡き戦友の軍靴すらも──遣り取りする際にも一番“交換価値”の高かったものが、塩(岩塩)。人は塩がなければ生きていけない──私はこの単純無比な真実を同書で初めて知った。「敵に塩を贈る」という言葉の内実を、平時の私たちは実感できるだろうか。
ルソン戦末期にはマラリアや赤痢が蔓延、餓死者が続出、分散した部隊に停戦命令が行き届かず、終戦半年後まで戦闘が続き、降伏までに日本軍20万人が戦死あるいは戦病死したという。
「毎年8月は一冊でもよいからこのような書物を読んで、思いをめぐらせたいと思う」とAmazonのカスタマーレビューにある。またぞろ夜郎自大(やろうじだい)が幅を利かせ始めたきな臭い時代、戦争世代からバトンを受け取った者の責務を考える。
[4/26最終]