■存在の当然視されかつ疑われる帯の軽さ──河原理子氏の「本をたどって 8」 |
河原氏は朝日新聞編集委員。今月7日(西部版)から夕刊紙上で「本をたどって」連載を担当、電子書籍の時代が来て、物質としての本、本のたたずまいを意識するようになった、ということで“本への旅”を続けている。仕事柄これも楽しく読ませてもらっているのだが、16日付の“帯を解き「当たり前」疑う”という記事が、私の中にずっとわだかまっている。一度フェイスブックに書いてみたが、場所柄もあるのか、なんだか後味が悪くてすぐに削除した。それでもなお遣り過ごしてしまうことができないので、思うところをここで書いておこう。
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鎌倉の出版社「港の人」(1997年創立。社名がいい)は、東京電力福島第一原発事故後、本に帯を付けるのをやめたという。「本来の書籍の姿からすれば余計なものではないか」と。とりあえず「省資源」の話ではないようなので、本に帯が要るかどうかに絞るが、そもそも、同社が一つの柱としている学術書、それに詩・歌集については、実際上帯の必要性は低い。店頭流通にあまりウエイトを置くジャンルではないからだ。
勿論同社はそうした分野以外も手掛けていて、すべての本から帯を取っ払ったのであれば、これは出版社として勇気ある決断だ。
ただ、この記事の文脈において、「当たり前のように生活に組み込まれている原発」を疑うように本に帯が巻かれていることの「当たり前」視を撃つ、というところに持ち込んでしまうのは、接ぎ木が少々無理矢理ではないだろうか。
文庫・新書を除いても、世に帯のない本は無数に存在する。すぐさま思い浮かべるのは、多くの編集者の憧れの出版社だと推測するが、“白い本”で独自の道を行くみすず書房(1947年創立)。ここの本の多くには帯がない。それに、装丁のタイトル及び著者名の文字があえて小さい。年季と根性が入っているのだ。そうなるとジャンルにあまり拘泥せずに揃えて並べたくなるのか、中型書店では同社の書籍が白い背表紙の一叢(ひとむら)としてしっかりと存在感を放っている(当然これもみすず戦略)。
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河原氏がその言葉を届かせたいとする射程は理解できるし、確かにこの頃は無闇な帯を付けている本も多い。けれど、港の人代表・里舘勇治氏も言うように、「本の内容を凝縮した」キャッチコピーこそが本作りの最後の課題だと考え、誠実な仕事をしている編集者は多いはずだ。装丁家やデザイナーの努力も忘れたくはない。
なお私は、3.11の翌年1月から花乱社選書の発行を始めたが、最初から帯は念頭になかった。「当たり前」を疑い社会を変えたかった、というほどのことでなく、まず経費、それにささやかながら資源のことを思った。「帯なしで美しい本」というより、「帯なしでも存在感があり、この本が求めている読者にきちんと伝わる装丁」を目指そうと考えた。
私も、自社の本を「美しい」と自賛PRすることがある。が、その瞬間はまだ自分が「標榜」しているにすぎない、ということも忘れてはいない。

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【追記】同連載は20日で終了した。6月7日、河原氏は西南学院大学で講演をされる。講演テーマとは関わらないが、チャンスがあれば直接意見をぶつけてみたい。
