■河原理子氏講演「『夜と霧』と私」 |
東日本大震災後、精神科医としてナチスの強制収容所体験を綴った『夜と霧』が改めて読まれているようだ。「不条理」に向かい合わざるを得なくなった人がたくさんいるのではないか。
大学時代に出会った後、歳月を経て『夜と霧』を読み返すことになった、と河原氏。「くり返し読んでいくなかで、書かれていることに気づく、触れていく、もっと奥まで手が届くようになる、そういう本だった」
確かに、私の時代も、『夜と霧』は特に人文系の大学生にとって必読図書の一冊であったし、掲載写真に私もショックを受けたことを覚えている。そして今、自分は一体どこにいるのだろう、どこまで来たのだろうか──。そのようにして始まる「旅」の契機は、きっと誰にでもあるだろう。
そうした旅を、センチメンタル・ジャーニーとしてでなく、一冊の書物についてその成立過程を追い、様々な読書体験の中に響き合い共有されたものを探る道程として描いた。それはまた、自分自身への「還相」の旅でもあった。
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「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」
「それでも人生にイエスと言う」
などというフランクルの言葉には宗教性を避けようとする姿勢が感じられる──きっと上記文中の「人生」を、キリスト者はそのまま「神」に置き換えたいだろう──との青野太潮氏(西南学院大学・新約聖書学)の問いに対し、河原氏は「宗教性を排除しようとしたのではなく、できるだけ多くの人に伝えたくてそうした言葉遣いを選んだのではないか」と答えた。
そして、そうした言葉は、ある場合他者への「押し付け」になりかねないことを充分に留意しつつ、「引き受けて生きる」生き方もあるのでは、というメッセージとして受けとめたい、と。
河原氏の声はとても低くて、終始静かに朗読しているような語り口だ。「これまでの人生の様々な場面で、書物に支えられ、助けられた」という最後の言葉が、通奏低音のごとく私の耳に響き続けている。
本を読み、その著者の生の声を聴く──これはやはり感銘深く、贅沢なことだ。おまけに持参した本にサインをもらい、握手……までは遠慮した。どうだ、これができるか? 電子書籍。
[いつかここで、バッハ「主よ人の望みの喜びよ」が聴きたい]

[この項、書き掛け]