■週替わりの夕暮れ |
ここでは、時系列とは逆順に、この夏の夕暮れをフェイスブック投稿から引き出してまとめておこう(池以外もあり)。
【9.8】
だいぶ暮れるのが早くなった。
池にも秋の気配。
鳴いているのはツクツクボウシのみ。
暮れきってそれが終息すると、今度は虫の音。

【9.4】
福岡市中央区舞鶴、20分前。久し振りの夕焼け(そろそろ雨も飽きたよね)。シャッターを何度か押している間に見る見るオレンジ色が褪せていき、最後は風が一刷毛で雲ごとさらっていった。

【9.1】
2週続けて雨天。うずうずとするのでウォーキングへ。微雨がなんだ、藪蚊も出ないし、むしろ気持ち良かった。同好の士/士女も結構居た。いつもの池とけぶる油山。

【8.18】
特別絵になるような雲もなく、
ただ暑いだけの、薄ぼんやりとした夏の午後……
あまり期待していなかったが、
それはそれでもそれなりの夕暮れが訪れる。
誰にも一度は人生の主人公となる時刻が来るように。
私は、雑念をしこたま胸に抱えて転がし転がし、
ビール、ビールとうなされつつ、
額から滴る汗を舐めながら、
池の周りをただ歩く。

【8.13】
「単に美しいだけの光景を撮ろうとは思わない。例えば夕焼けを前にしたなら、黙ってそのまま眺めていたい」という、知人の女性写真家の言葉を聞いたのはいつだったか。
その想いは分かるつもりだ。写真家であろうがなかろうが、或いはそもそも写真の話でなくとも。ただ思うのは、「単に美しいだけの光景」が、さて実は、いつまでも変わらずそのままに在る(自分に訪れる)ものだろうか、ということ。
「美」を語るのは危ないことだ。あの元画学生アドルフ・ヒトラーですら(こそが)「美」を愛した。実のところ今だって、あのナチスや北朝鮮の行軍風景に、「美しい」と酔い痴れる(趣味の)人間が結構いるのではないか。
私もつい一昨日、「美しい」ものへ憧れる気持ちを書いた。闇雲に(と思われかねない流れで、大上段に)「美」を語るのは危ないことだ。もう止めにしよう。どうしても「美しい」と言いたい場合は、少女たちから学んだ「カワイイ!」で代用しよう……というのは無理か。

【8.11】
昨日の同窓会で、FB友達でもある同級生の一人から「別府さんがFBに投稿している内容に──身辺雑記的なものと政治的なものとの──二面性があって、どっちが本来の別府さんなのか分からない」といった主旨の感想をもらった。
予測していた質問であると同時に、きっと後者の投稿では不愉快な想いを味わわせている人もいるだろうと改めて思った(そうした事柄にかまけていることで僕自身、時々、気持ちがささくれ立つ)。
僕が大事にしたいのは、人ひとりの命(自然)と生き方。そこに日々の暮らしがあり、俳句で言う「花鳥風月」があり、ありとあらゆる「美しい」ものがあり、ささやかな声として「文学」がある。
いつだって、そうしたものを奪おうとする考え方(「力」への信仰)があり、実行しようとする人間たちがいる。
他国に押し入った挙げ句、唯一原爆を落とされた敗戦国に生まれた人間として、父母や祖父母世代の過ちを繰り返す(のをただ座視する)わけにはいかない。
だから、自分に残された時間の中で、なお「美しい」ものを探し求めつつ、回ってきたボールを次の誰かに(ほとんど絶望的かも知れないゴールに向かうために)パスしようと、日々、暗中模索なのです。怪しげな雲間からも一瞬、曙光が差すのを見逃さないようにして……。

【7.15】
今日も出会ってしまった夕焼け。
これほど燃えているのは久し振り。
自宅近くの堤丘小学校(城南区)の校庭、これも久し振りに滑り台に昇って撮影。

【7.8】
若者よ 体を鍛えておけ
美しい心が たくましい体に
からくも支えられる 日がいつかはくる
その日のために体を鍛えておけ
若者よ (「若者よ」作詞:ぬやまひろし/作曲:関忠亮)
またまたウォーキング中に見過ごすことのできなかった「饒舌な空」。その帰り路にふと、久し振りに思い出したのがこの歌。
これを体育の時間に何度も歌わせて叩き込んでくれたのは、確か篠崎中学校(北九州市小倉)の塩塚誠先生。当時は、どこの中学でも歌っていたのだろうか。
もしそうなら、同時代の人に聞いてみたい。「美しい心」を支えてこれただろうか? 或いは「美しい心」と出会っただろうか? そもそも「美しい心」ってどんなものだ?
──確かに、「美しい心が逞しい体に辛くも支えられる」ということはあるだろう。ここでのポイントは勿論「辛くも」であり、そう簡単ではないぞ、ということ。この歌は、それが困難な道であろうとも夢や理想を信じることのできた──“若かりし戦後”の産物だったのだろう。
全く別な困難に直面している(のかも知れない)この時代、鍛えた体こそが「美しい心」に支えられなければなんぼのものでもない(三島を思い出す)ことすら知ってしまった今、こうしたシンプルな「青春の応援歌」が存在し得ないのは寂しいことだ。

【7.1】
昨日曜日、2週間振りだったのでワクワクしながら、自宅から2キロ弱の西の堤池(福岡市城南区)へウォーキングに。空気が澄んでいて、高低差のある雲が適当に浮かび、空全体が大きなドーム空間のように感じられる夕暮れが好きだ。魔女の宅急便も仕事を急ぐ頃。
700メートルの周廻道を11周。1周するごとに西の空は陰翳を深めていく。どこにもある空と雲、そしてどこでも見ることのできる夕暮れ。けれどいつも、これが最後の光景のような気がして、つい日没とスピードを競ってしまう。
というわけで、またまた空の写真で恐縮。低気圧の前後に現れやすいとされる「変化高積雲」か。

*
■おまけ
【7.21】
花乱の滝へ行く途中、早良区脇山にて。小型のヒマワリがみんな、ずっとこちらを見ていた。このヒマワリなら、ソフィア・ローレンの悲しみ(映画『ひまわり』)も、もっと可憐に感じられただろう。ともかく、日輪の方を向いて堂々と生きていく姿を見習いたい。

【8.21】
昨夜の月。
見てると、どうしても遠吠えしたくなる。
犬ではなく狼になって。
今夜が満月とか。

[この項書きかけ]