■著書を出すということ──河村敬一著『亀井南冥小伝』 |
以下、本書案内文を抜粋。

亀井南冥は今から270年前の、1743(寛保3)年福岡・姪浜生まれ。朝鮮通信使との詩文応酬、志賀島で発見された金印の鑑定で知られる江戸時代の儒学者・医者。町医から福岡藩儒医に抜擢され、福岡藩西学問所甘棠館(かんとうかん)館長を任じられ、荻生徂徠の流れを汲む亀門学(きもんがく)を創始。しかし在職8年で突然罷免され、悲運のうちに(自宅火災にて)生涯を終える。
本書は、高校で社会科を担当している著者が、地元福岡においても広く知られているとは言い難いこの儒学者の生涯を、高校生にも分かりやすい形で紹介したもの。特に、十代の頃からの諸国遊学と各地同好の士・儒学者との交流、それに朝鮮通信使と実際にどのように交わったのかなどについて詳しく、当時の文化的なネットワークの一端が垣間見えるものとなっている。
反骨として知られ、「儒侠(じゅきょう)」とも称された亀井南冥。余談めくが、甘棠館焼失直後、広瀬淡窓が見舞いに駆け付けたところ、南冥・昭陽父子は瓦礫となった跡地で酒宴をしていたとのこと(ともかく火事の多い時代。記録上、南冥は三度火事に見舞われている。勝手な言い草だが、豪気を伝えるこのエピソードは好きだ)。
小社では今年1月、同じく亀井南冥を取り上げた早船正夫著『儒学者 亀井南冥・ここが偉かった』を刊行した。こちらは南冥の6代目の孫にあたる著者が、主として、南冥の主著『論語語由』について渋沢英一の解釈を手掛かりに詳細に読み解いたものだが、この度の河村氏の著書は、亀井南冥という儒学者がどのようなことに関わり、どう生きたのか、その全体像を簡便に掴むことのできる伝記として世に問う次第である。
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著者の河村氏より、刊行後に一文をいただいている。少々長いが、そのまま掲載する。
●『亀井南冥小伝』の刊行にあたり
河村 敬一
この度の拙著刊行にあたり、まずは二人の恩師のことについて述べてみたい。
大学時代の恩師は、戦前に幾つかの著書・翻訳書を刊行されていたが、戦後は一貫して著書を出版しないという方針であった。私は、その意図を質していくために何度か尋ねてみたものの、明確な応えをもらったことはない。ただ、戦前の翻訳書については、訳者序言において数ページにわたりカットされている部分があった。これが原点であるのか、多くを語ってくれることはなかったが、そこには検閲があってのことだと今更に思う。
恩師は語学の天才ともいってよく、フランス語をはじめ、英語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、さらには満蒙語などにも通じていた。私は、少なくともその影響を受けながらも、何一つ満足に語学を修得できなかったことを後悔している。恩師によるゼミの演習は、主としてプラトンやアリストテレスを希英対訳の本用いて少しずつではあるが読み、その思想を捉えていくものであった。
その恩師が語った言葉の中で印象に残っているのは、著書のない自分についてくる学生が不憫だ、しかし、著書を残すことはその誤りとともに、後世への恥じではないか、むしろその誤りを発見した際に、それを訂正することができないとなければ、そのことを考えると著書などを残すことはできない、というものであった。
こうした恩師のことを考えると、私は何と恥ずかしいながらも著書を出版している。多くを語ってくれなかった恩師の叱責を受けるものと思う。しかし、これまでどうしても書きたい、書かざるを得ないものがあったために、多くの拙い文を世に問うことになってしまっている。こうした状況にありながらも、できるだけ私の主張とともに、考えてきたものを提供することで、自らの現状への脱却のためにもいろいろと物書きに走ってしまったと言ってよい。
今回の拙著は、福岡(博多)の人物であり、地域の方々には知られていても、それほど全国的に有名ではないかもしれないが、亀井南冥を取り上げ、多くの文献に支えられながら叙述してみたものである。少なくとも、南冥という人物像は描くことができただろう。本書「はじめに」でも述べたことだが、特に高野江鼎湖と荒木見悟の両氏の本を参照させていただいた。
高野江の著書は1世紀以上も前の刊行であるため、古典のような作品であるとともに、多くの誤字も発見した。ただ、『筑紫史談』にも論文が掲載されており、南冥の郷土研究史家であることがわかる。中表紙は大正2年2月とし、「南冥先生百回忌紀念出版」となっているし、奥付では著作者兼発行者高野江基太郎(筑前国福岡市東職人町四番地寄留)とあり、印刷者・印刷所ともに福岡市内で、定価1円50銭となっている(今の貨幣価値に換算していくらなのだろうか)。最終頁には、「附記」として次のように述べられている。
「此書の資料は先生の玄孫亀井千里氏に依りて供給され、其他二三、宗家頴原氏の所蔵により蒐集せしものあり、然れども編めて一巻とすれば、資料の不備を感するもの少なからず、素より完璧を以て期するにあらざる也、同好の士他に珍蔵あらば、幸に公示した他日の訂正に資せられんことを望む」とあるが、極めて基本的な文献であって貴重なものである。
もう一人の恩師について語ってみたい。わずか2年間だけであったが、「東洋思想」という中で、『論語』はじめ『易経』、さらには佐藤一斎の『言志四録』など漢文の読みだけでなく、思想そのものへの探究する姿勢を教えていただいた。恩師は、王陽明の研究者として有名である。中国思想をはじめ、日本思想(特に貝原益軒)を学ばせていただいた。数多くの著書があり、出版されるたびに送っていただいたりした。
その恩師から亀井南冥を叙述してはどうか、というお誘いを受けていたものの、結局、それを果たす前に恩師は他界された。今回、その約束の一端を果たすことができたのではないか、と独りよがりの思いに浸っている。
本書は、研究書ではないものの、できるだけ最新の知見を参考にしながら叙述するとともに、できるだけ原典である文献にもあたりながら書き進めた。多くの文献から引用や参照もさせていただいた。
恩師のお二人は、西洋と東洋との違いはあるが、私がこのような著書を出版したことにはかなりの遺憾なものを感じられることであろう。今は亡き二人の恩師の学恩を感謝するだけでなく、これまで学問探究の精神を教わったことには感謝してもしきれないほどである。
また、今回、特に私自身が最も注意すべき点を、編集の立場から花乱社の別府大悟氏に多くを教わった。私は、今まで独りよがりの文章を書いていたのではないか、ということである。まさに文章を書くことの恐ろしさとも言えるものを痛感している。文章を書くことは、かくも難しいもので、読者の立場を考えずにいたことについて忸怩(じくじ)たるものがある。別府氏からいただいた多くのご指摘は、自らを反省するばかりであった。この点は、単なるお礼だけでは済まないものと思っている。著書刊行の難しさを痛感する日々であった。
ともかく、今回の出版にあたっては、多くのことを思い出させてくれた。未熟な小著となってしまったが、ここに仮寝の宿りして、また明日の旅路の準備をしたい。
(2013年10月15日筆)
→花乱社HP