■福岡地方史研究会の新年会における秀村選三氏 |
福岡地方史研究会は1962年12月、大学に籍を置く研究者と民間の研究者が対等に研究内容を批評し合う場を作ろう、ということで「福岡地方史談話会」として発足(1980年4月、現会名に変更)。50年以上の歴史を持つ地域史研究会だ。例会は550回を超え、会報(年報)『福岡地方史研究』も昨年8月、51号(特集:黒田家と福岡・博多)を刊行した。
私はこれまで、福岡地方史研究会とは、1991年の『福岡歴史探検』を皮切りに、『福岡藩分限帳集成』、『福岡歴史散策』(いずれも海鳥社)など十指に近い本を刊行してきた。会長の石瀧さん(個人HP)とは30年に近いお付き合いで、前の会社で『玄洋社 封印された実像』を手掛け、小社でも『筑前竹槍一揆研究ノート』を刊行してきた。
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さて、新年会には11名が参加。中でも、例会は欠席するが新年会は体調の許す限り参加したい、と前もって連絡のあった秀村選三九州大学名誉教授のご来籠には、やはり一同驚いてしまった。秀村先生は研究会創立以来のメンバーで、現在91歳。
「ウィキペディア」記事に加筆してその紹介をする。
【1922年12月10日、福岡市にて出生。県立福岡中学校(現福岡高等学校)、旧制福岡高等学校をへて、京都帝国大学に入学。京大への志望は同大教授で当時、日本経済史研究の権威であった本庄栄治郎がいたためであった。京大在学中、いわゆる学徒出陣で1年10カ月海軍に従軍するも終戦。自宅の戦災、預金封鎖、在外資産喪失のため、当時京大教授であった蜷川虎三の勧めで九州帝国大学に転校し卒業。大学院にて宮本又次、竹内理三、喜多野清一に指導を受けた。 1951年九州大学経済学部助教授、66年経済学部教授となり、86年九州大学名誉教授となる。86年から98年まで久留米大学教授。 2005年に徳川賞受賞。 07年、江戸時代における郷士制度下の郷村を精緻に分析した著書『幕末期薩摩藩の農業と社会──大隅国高山郷士守屋家をめぐって』で日本学士院賞恩賜賞受賞。 無教会主義のクリスチャンでもある。東京大学名誉教授の秀村欣二(西洋史)は実兄。】

近年、会では長老格の方からの聴き取りを進めていて、秀村先生についても会報50号に「私と福岡地方史研究会」という談話を掲載しているが、そこでは長崎への原爆投下時、魚雷艇長として長崎湾口の樺島基地で雷落下のごとき様子を見たことが語られている。1世紀近く生きていると、つくづく様々なことを見聞するものだ、と思わされる。
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秀村先生からはだいぶ以前より、個人著作集を編纂中と伺ってきた。随分と固い内容のものとなることだろう。実は私は随分前から、随筆や講演録など、論文以外の原稿を集めた本を出させていただきたい、というご相談をしてきた。先生のお話を伺ってきて、専門研究分野の中だけに留めているのは惜しいと思うからだ。ご返事は簡明なもので、「歴史研究者たるもの、まずは史料、次に論文をまとめなければ。そういうものを出さずして、随筆集や講演録なんぞ考えられません」と。最初の時から、そのままもう25年経つだろうか。
人と語り合うのが好きな方だ。例会(勉強会)は措いても新年会には何とか出て行こうという熱意は、まずは、そこでの語らいに耳を傾けようということだろうし、自分の生きてきた道程とその経験から何を学んだかを皆に伝えたいということもあると思う。いかにも「民学協同」ということを掲げてきた方らしい。たとえ91歳になろうが、求めているのは仲間。
新年会からの帰り道、たまたま二人となり、地下鉄筥崎宮前駅への長い階段を下る時、その腕を支えるという私に似合わない気遣いをしたが、先生はおもむろに「そうされると却って歩きにくい」とおっしゃった。
人間幾つになっても、つまるところ最後は、何をするために生きているのか、だろう。数年前からの一人暮らしについても「いやー、煮炊き(炊事)というのは面白いですなー」と、また「(戦争体験者からすれば)今の世の中、どこかおかしいですなー」と言われる、秀村選三氏。すべきこと、やり残したことがある、と。こうした人の生き方からまだ学ぶ時間があることは幸いだ。
[この項書き掛け]