■木内みどりさんが松下竜一講演録『暗闇に耐える思想』を紹介 |
本書は花乱社選書第1冊目。2012年1月刊行以来、数はそれほど多くないが途切れずに動いている。刊行経緯は→松下竜一講演録『暗闇に耐える思想』
この国になお、「暗闇」と「静けさ」を求め続けている人がいる。今が「冬の時代」だとしても、この季節こそ星空が一番美しいことを忘れるわけにいかない。

本書巻頭に収めた「暗闇の思想」は、1972年12月16日付「朝日新聞」に掲載。既に40年以上前の原稿であり、他の本でも何度か転載されてきているので、ここでは全文を掲げておこう。ちっとも古びていないことが確認できるはずだ。
暗闇の思想
あえて大げさにいえば、〈暗闇の思想〉ということを、このごろ考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。
きっかけは、電力である。原子力をも含めて発電所の公害は、今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。
もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者なら既に気づいている。
かつて佐藤首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化をも拒否出来る思想が。
今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。一〇年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は、極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は、夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私達の語らいはいかに虚飾なく青春の思いを深めたことか。暗闇にひそむということは、なにかしら思惟を根源的な方向へとしずめていく気がする。それは、私達が青春のさなかに居たからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟から遠ざかってしまったが、本当は私達の生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないか、とこのごろ考えはじめている。
電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力五〇万キロワットの発電所をひとつずつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。年一〇%の高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必然不可欠であろう。
しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効果の枠内で解消しがたい。そこで、電力会社と良識派を称する人々は、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出て来る。
本当ならこういわねばならぬのに──だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。
じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、私とて電力全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめて、しばらく鎮静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう。火力発電に関していえば、既存発電所すべてに排煙脱硫装置を設置し、その実効を見究めよう。低硫黄重油、ナフサ、LNGを真に確保出来るか、それを幾年かにわたって実証しよう。しかるのち、改めて衆議して、建設を検討すべきだといいたいのだ。
たちまち反論の声があがるであろう。経済構造を一片も知らぬ無名文士のたわけた精神論として一笑に付されるであろう。だが、無知で素朴ゆえに聞きたいのだが、一体そんなに生産した物は、どうなるのだろう。タイの日本製品不買運動は、かりそめごとではあるまい。公害による人身被害、精神荒廃、国土破壊に目をつぶり、ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。
「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成(かざなし)で、志布志で、佐賀関で漁民や住民が発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば〈暗闇の思想〉にも行き着くはずなのだ。
いわば、発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想〉があらねばなるまい。
まず、電力がとめどなく必要なのだという現代の絶対神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省で、それは可能となろう。
冗談でなくいいたいのだが、〈停電の日〉をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも過熱しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でも、テレビ離れした〈暗闇の思想〉に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。
私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬという予感がしている。
→花乱社HP