■大隈言道の歌に見る「憧れるこころ」 |
桜については、すぐさま、「万朶(ばんだ)の桜」と謳われ潔さの象徴として国粋思想の鼓吹(こすい)に利用された時代のことや坂口安吾の「桜の森の満開の下」など何故か禍々しい話を思い浮かべたりするのはともかく、あの花はいつも、頭の中で思い描いた時より実際は美しくない。
その桜嫌いの私が、幕末福岡生まれの「桜狂い」の歌人・大隈言道(おおくまことみち)を顕彰・研究しようという集まり「ささのや会」の立ち上げに参加して、以来23年になる。会の経緯と現在の取り組みについては→20周年を迎えた「大隈言道研究・ささのや会」。
お蔭で、というより端的に齢のせいか、さすがに私も
世の中にわが願ふことただ二つ 命ながさと花となりけり
といった心持ちは分かるようになってきた。
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そもそも和歌においては「花」と言えば桜で、これを抜きに語ることはできない。「桜狂い」と称される歌人は多いが、中でも言道はとびきりではないだろうか。
その言道に、溺愛しているはずの桜木を伐る歌が多いことに驚く。
1月31日のささのや会で遭遇した歌を掲げれば(以下、適宜漢字を当て、濁音に変更)、
木(こ)のもとに立居も得せずなりにけり 肩に膝にも花は散りつつ
桜の下に居て、肩にも膝にも花びらが降りかかってくるので立ち居振る舞いができない、などと、とても繊細優美な情景を歌ったかと思うと、次には、
人のためただ折りに折る桜花 与へたらずも成れる枝哉
と、人のためにとどれだけ折ってもまだ与え足りないほどの枝振りを歌う。
さらに、すぐその横では、
そともより花ぬすみ折わらは(童)ども いかに音して驚かしてむ
家の外から花を取り折ろうとする童たちをいかに驚かせてやろうか、と。
まあ、桜をめぐって微笑ましい光景とも言えるのだが、それにしてもこの人たちの時代には「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という言葉はまだなかったのか、と思ってしまう。
いやいや、言道のために言っておけば、彼が描くのはいつもあくまで古典に則った定型的な仮構世界(フィクション)なので、現実に本人が桜木を折りに折った、ということではないだろう(と思いたい)。
[2013.4 長浜公園]
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ところで、先夜の会で私が一番惹かれたのは、
あくかるゝこゝろ今さら帰きて わか身すへなき春のはて哉 (原文通り)
という歌。
会を指導する穴山健氏(近世文学専攻)は最初、私のうろ覚えながら「花を愛でて帰ってきたばかりなのに、今さら憧れる心が訪れて我が身のなすすべがない、春の果てであることよ」といったふうに解釈され(ここでは「帰った」のは、歌っている本人となる)、そうすると意味の切れ目が分かりやすいように便宜上一字空けた箇所を、「帰きて」の前に移す必要があるだろう、と言われた。
私の直感的素人解釈はそれとは異なって、「もう春の果てともなったのに、あれだけ愛でてきた花への憧れが今さら帰ってきて、我が身のなすすべがない」と取った方が綺麗なのではないか、というものだった。
うーん、そう受け取った方が素直でしょうかね…と穴山氏。話はそこから「あくかるゝ」に移り、「憧れというのは、魂が体から抜け出ること」という大野晋説が穴山氏から紹介され、座がまた盛り上がった。
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では、大野晋(国語学者、1919〜2008年)は「あこがれ」についてどう書いているか(『日本語の年輪』)。ザッと抜粋してみる。
【私たちの努力だけでは到達できない未知のもの。それゆえにこそ、渇仰の対象として消えずに、いつまでもあるもの。それが「あこがれ」の対象であろう。「あこがれ」は、それこそ古くから人々の心に巣くった感情であろう。
「あこがれ」という言葉そのものは、しかし新しい言葉である。これは鎌倉時代の末、室町時代ごろから現われた。それ以前は、「あくがれ」といっていた。「月や花にあくがれ」た平安時代の宮廷の人々は、「月や花を見にさまよい歩いた」のである。
この「あくがれ」は「あく」と「かれ」とに分けられる言葉である。「かれ」とは離れて遠く去ることで、「あく」とは、「こと」とか「ところ」とかいう意味の古い言葉である。だから、「あくがれ」とは、自分のいるところを離れて、うかれて、あちこち歩きまわることである。そこから、「ものおもふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」という言い方が出てくる。ものを思う人の魂は本当にからだから抜け出て、その魂ばかりがあちこちさまよい歩くものだなという意味である。
あこがれは純粋である。しかし、そこには身動きできない人間のはかなさがついてまわる。しかし、本当に美しいもの、学問や藝術、あるいは理想の社会に人を駆って歩ませるものは、やはり、心に深く蔵された「あこがれ」の心ではないのだろうか】
「憧れ」とは、見果てぬ何かに渇仰し、魂が体から浮かれ出ること。
言道の歌(あくかるゝこゝろ今さら帰きて わか身すへなき春のはて哉)に戻れば、上の句はまさに「憧れるこころ今さら帰りきて」。つまり、やはりここでは──言道が鎌倉時代末以降の用語法に忠実だったかどうかは分からないにしても──もう春も終わりなのに、今さら花に憧れた(浮かれ出ていった)心が帰ってきて、我が身をどうしていいか分からない、と受け取っておきたい。
実際、大野晋も言うように、私たちは花や月に限らず様々なものに憧れる。魂が体から浮かれ出ようとするのは、人の体が一つきりで、人生が一回きりだからではないか。即ち、「憧れ」というのは「超越」への契機でもある。「憧れるこころ」はその意味で、ヒトという生きものの底知れぬ真実を映し出していると言わねばならない。
【追記】
古典に素養の深い友人から、和泉式部の歌に「物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂かとぞみる」があるとの教示をもらった。切なくて、美しい歌だ。
【追記2】
後日、『定本 八木重吉詩集』を眺めていて「心よ」という詩に行き当たった。
この人は分かっている、と言うべきだろう。
心 よ
ほのかにも いろづいてゆく こころ
われながら あいらしいこころよ
ながれ ゆくものよ
さあ それならば ゆくがいい
「役立たぬもの」にあくがれて はてしなく
まぼろしを 追うて かぎりなく
こころときめいて かけりゆけよ
[3/16最終]
→花乱社HP