■城野茂門氏と源太窯を訪ねた日 |
1992年の秋の一日、私は城野氏ご夫妻と星野村に遊んだ。源太窯にはそれ以前、葦書房在籍時代に久本三多氏(→久本三多氏のオルト邸、それに長崎チャンポン)と伺ったことがあり、この時が二度目だったと思う。
城野さんとは、1985年に『福岡を歩く』(共著)を出し、星野村行きの前の3月に『暮らしの鳥ごよみ』を刊行。協同しての一仕事を終え、ドライヴがてら城野さん旧知の源太窯に行こうということになったのだった。
山本源太氏宅で昼食を呼ばれた後、ゆっくりと付近を散歩し、零余子(むかご)を見つけて喜んで採って帰ったことを覚えている。
山本・城野両氏ご夫妻と一緒に撮った写真がある。今更叱られることはないだろうから、掲げておきたい。

その後4年半程して、城野さんは翔び立って帰らぬ人となった。まだインターネットの時代ではなく、今はもう知る人もだいぶ少なくなってしまったことだろうから、こういう人がいたということを伝え残しておきたく、以下、当時私が山仲間(→「棕櫚竹も来た」)に送っていた通信に記載した追悼文から抜粋しておきたい。
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11月23日、城野茂門さんが死去。76歳。福岡市民にはよく知られた野鳥研究家で、どこかでカラスの大集団が居たとか、大濠公園には最近どんな鳥が集まっているかとか、自分の庭に見慣れない野鳥が飛来したとかといった場合、新聞社やテレビ局や野鳥に関心を持つ人たちが第一に伺いをたてる人だった。
元福岡県職員であり、美術館の学芸員を最後に勤めた方だけあって美術方面に造詣が深く、またエッセイストでもあり、亡くなる前月まで、カルチャーセンターにおいて、スケッチ画に文章を配した「葉書随筆」を指導する講座を受け持っておられた。
関心分野は幅広く、野鳥を中心に人間を取り巻く環境全般にまで及び、几帳面な性格そのままに、ご自宅には専門書の他、新聞・雑誌の切り抜き、焼物、古い瓶などの収集物が見事に整理されていた。また、元旅館の子息ということで「食」にも通じ、本場仕込みのカレーライスの他、ご自分で釣ったハゼの手料理を御馳走になったこともあるが、後で伺えば、その準備のために何日も前から釣竿をかついで中洲河畔に通ったとのことだった。
私が初めてお会いしたのは1984年、前にいた会社で企画した『福岡で歩く』という福岡市周辺のハイキング・ガイドの執筆を依頼した時で、1992年には『暮らしの鳥ごよみ』という野鳥をめぐるエッセイ集も手掛けた。
その城野さんが晩年、なんとかこれだけはまとめておきたいと言われていたのが、「食べものの戦記」といったテーマで、兵隊たちが戦地(主として東南アジア)でどんなものを食べていたかを伝える本だった。河の中にこっそり手榴弾を投げ込んで(もちろんこれは御法度)浮き上がった魚を食べた話、罠を作り野鳥を捕獲して食べた話、等々(ついでながら、戦地で一番大事な “糧食” はすなわち塩で、極限状況下においては一塊の岩塩とリュック一杯の食料とが交換されたという話を、ある戦記で読んだことがある。塩がなければ、どんな野生のものも食として味わえない)。
戦地といえども、戦闘の合間にはもちろん生活が行われていたのであり、「食べて、出す」という繰り返しがあったわけだ。勇壮なもの、悲惨なもの……戦記は数多(あまた)あれど、そういうごく自然で日常的な目線で綴られた記録がない、というのが城野さんの想いだった。そういったテーマこそ “永遠の少年” のような城野さんの真骨頂だと、私も原稿の完成を心待ちにしていたが、結局、本人にしか分からないメモだけが残され、これは幻の本となった。
戦地においても生活が営まれていた。野鳥研究家だってかつては野鳥を食していた──。表向きの話や建前上の正義を振りかざすような言葉が声高に語られる一方で、人間の生の真実や生活の現実が覆い隠され、忘却され、直視できなくなっている面が今の “明るくて清潔な社会” にはある、と私は常々考えているが、打ち合わせなどで来社される際、長い付き合いの糖尿病のためご本人は食べられないのに、贔屓にされている店の饅頭などをいつも携えてこられる──だが決して長居はされなかった──城野さんの姿を思い返す度に、人間の欲望や性(さが)とそれをきちんと見据えていた人の奥深さとを考えさせられる。以前嗜んでいたということで、煙草の煙にすらむしろ望んで巻かれようとされた。
私の父は生前、「どんな美人でも便所では坐り込んで○○○をするのだ」とよく言っていたものだ。もちろんこれは単なる露悪の言(げん)だが、いい加減齢を重ねるうち、どんな年齢、どんな状況下でも 、“美” を見、かつ求めることができるかどうかという “心持ちの美学” として、私は受け取るようになってきた。
汚れを知っている美しさ、暗さに支えられた明るさ、苦しさに鍛えられたおおらかさ──そういった繊細かつ力強い生き方を夢見て志す場合、どのような「先達」と出会うかは重要なことだろう。それがたとえ書物の中の人物であれ、我々の中には、いつまでも生き続けて滅びない存在があるはずだ。
(「山歩通信」NO.80、1997年1月)
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今読み返すと、見聞きしたことで書いていない事柄も多い。例えば、立派に父娘ほど齢が離れた奥さんとの再婚までに至る物語めいた経緯などは、うろ覚えのまま他人が賢しらに文章にすることではない。人にはそれぞれ抱え持った真実がある。
ただ、三つのエピソードを書き加えておきたい。
まず、上記「食べものの戦記」を書き始めた時、旧日本軍で使用していたチェッコ銃(ブルーノZB26軽機関銃というのが正式らしい)の銃身の口径サイズを記そうとして分からず、そうなると気になって執筆が全く進まないので防衛庁の戦史資料室にまで電話を掛けたが、そこでもやっぱり判明しなかった、ということだった。一つのことを疎かにしない、完璧主義の人であった。
もう一つは、旨い日本酒があるからと言われてお宅を訪問、ご自分はそもそもがぼちぼちとしか嗜まないものを、つがれるがままに頂いた私が、結局半升程を飲んでしまったことがある(それでも控えたつもりだったが、帰り際、城野さんはやや悔やみ顔に見えた)。その酒が、今も私が日本酒好きの人たちと集う際に予め店に用意しておいてもらう「繁枡」(しげます 八女市・髙橋商店)。それほど高価でないし、旨味と辛味の絡み具合がちょうど良い。
そして、何事においても段取りを整え、装い・持ち物などにもお洒落な人だった城野さんは、生前から自分用の骨壺を用意されていた。いつも簞笥の上に鎮座していた白い筒型(だったと思う)のそれは、山本源太氏に特別発注したものだった。フクロウ好き(フクロウを模した置物なども蒐集していた)だった城野さんは今、そのお洒落な壺の中で心置きなく微睡(まどろ)んでいることだろう。
人は二度、死を迎える。一度目は、自分自身の死。二度目は、その人間を知っている人の死。その最期の時まで、情熱と遊び心と人間の煩悩の根深さとを垣間見させていただいた「先達」に対し、私にもバトンを受けて渡すという役割がある。
[2/28最終]
→花乱社HP