■週替わりの夕暮れ[2014.3.9] |
いつもの夕方、雨上がりの道を歩き始める。
雲がなかなかいい感じだ。
邪魔かも知れないものこそが、夕暮れをより愛おしくさせる。
ふと、今朝読んだ新聞で、俳優・髙橋長英氏が八木重吉の詩を語っていたのを思い出す。
【 わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
誰にも、そんな経験があるんじゃないか。あの時はそういうことだったのかと。自分も本来持っているけれど、心のすみや外に追いやっている無垢な魂を、思い出させてくれる。だから心がささくれて、殺伐とした時に読むと、気持ちが静まるのかもしれません。
自分というか、自我をうたっているんじゃないよね。それなら、こんなに心打たれないと思う。大自然に身をゆだね、ちっぽけな自分を対象化している。自然と一つに溶け込んでいるから、透明感があって胸に響くのかもしれない。】
そう、問題は自我を歌うことではない、という真実を俺たちが知るのに、一体どれほどの年月が必要だったのだろう。
(だからといって、もはや、大自然を歌えばいいというわけにもいかなくなった。)
八木重吉は1898年、東京生まれ、結核がもとで29歳で死去。
髙橋氏が取り上げた『永遠の詩(8) 八木重吉』(小学館)のジャケットには、「雨があがるようにしずかに死んでゆこう」という詩句が掲げられている。
雨 (1942年)
雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでゆこう
[3/10最終]
→花乱社HP