■幻惑的台湾、そして高度1万メートルの夕暮れ |
このところの台湾への関心で言えば、大きく二つあった。一つは、私はつい最近まで、日本統治下では高砂族(たかさごぞく、高山族。広義には台湾原住民の総称、狭義には台湾原住民のうち「漢化」しなかった部族の総称)という呼称があったことは知っていたが、この国が多民族社会であることをほとんど認識していなかった。台湾島嶼全体には、漢民族が渡ってくる以前、数万年前に住み着いた「原住民」(“すでに滅んでしまった民族” というわけでないことから、台湾では「先住民」ではなくこう呼ぶ)が、全人口のわずか2%(約50万人)だが、12〜14民族(部族)あるとされる。さらに、漢民族を主とする渡来人も、1945年の日本統治時代の終焉を境に、それ以前から住んでいた人たちを「本省人」、以後に渡って来た人たちを「外省人」と呼ぶなど、小さな島ながら人種・民族問題はとても複雑だ。なお、日本政府は1972年、中華人民共和国を承認し中華民国と断交、以後は国ではなく「地域」として扱っている。
もう一つは、今書いた「小さな島」という印象の話。台湾には、日本統治時代に新高山(にいたかやま。日米開戦の日時を告げる海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」で知られる)と呼ばれた玉山(ぎょくざん)の3952mを最高峰に、3000メートル超の山が数多くある。富士山なんて目じゃないのだが、あんな小さな島に……とつい思ってしまうところに、そもそも何か大きな錯覚か思い込み──大陸「中国」との無意識裡の比較に基づいたものか──があるのではないかと感じてきていた。実は、台湾の面積は九州のそれと大きくは違わないのだ。
といった次第で、たかだか四泊五日程度の旅でえらく大きなことを言うようだが、自分の中での「台湾」見直しの機会ともなれば、という想いがあった。

【福岡─台北】
1日夕刻、福岡空港を離陸。幸先よく、黄昏時の我が街に見送られる形となった。

その後、おそらく九州を南下しているのだろうが、地上1万メートルの中空でアラビアン・ナイトのごとき光景がしばらく展開。上弦の月の輪郭を延長する円いラインがくっきりと見える。

【台北─花蓮(かれん)】
台北は13年前に訪れて以来だ。朝食後、そぼ降る雨の中を散歩。

台北から台湾島東部・花蓮へは鉄道利用。
少数民族アミ族の文化村で民族舞踊を鑑賞。会場は小型のドーム。メーンはバンブーダンスで、観客も引っ張り込まれる。台湾や中国からの観光客と思しき若い女性や子供たちの積極性に感心する。
ちなみにアミ族は、台湾原住民の総人口の中で最大の37〜38%(15〜18万人)を占めるという(少し前のアイヌ人の推計は20万人)。1996年以降、民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年には「原住民族基本法」が制定されている。

【花蓮─高雄】
花蓮県は、西側より3000メートルを超す大山脈が迫る地域。観光の目玉は、立霧渓(たっきりけい)が大理石の岩盤を浸蝕して形成された太魯閣(タロコ)渓谷。断崖絶壁が約20キロ続くという。1000メートルの直立断崖は雨に煙って仰ぎ見ることができなかった。ましてや、最高峰・玉山をせめて遠望できないか、などという淡い期待はとんでもないことがよく分かった。

花蓮は世界有数の大理石産地。空港内部でも床・柱・天井に大理石が使われている。

花蓮より空路高雄へ。この島のほぼ南端に近い高雄は、台湾第二の都市。
蓮池潭(れんちたん)は、水に恵まれない高雄の人造湖。見える範囲で言えば、大濠公園の10倍はあろうか。

龍と虎の口から出入りする龍虎塔に、やはり中華系の観光客が大喜びしていた。この子供騙し的な絢爛たる張りぼて感こそが中華的だとも言えるが、自然景観とのマッチングを考えると、こうした美意識には何かが欠落もしくは過剰な感が否めない。
ついでながら、私の目からすれば広く「中国人」と思える若い女性たちの間で、眼鏡を掛けている人が多いと感じた。若い日本人女性の間では5人の内2〜3人がコンタクトレンズ愛用者ではないかと私は推測しているが、台北や高雄の街中で、同じ対象に同程度の比率で眼鏡利用者を見掛けた気がする。日本だけでなく、韓国と比べても随分と多いはずだ。そういった点では、若者に対する周囲の暗黙的しばり(同調圧力)が緩い社会と考えていいのだろうか。



壽山(じゅざん)公園より高雄市街を臨む。

高雄の代表的な観光夜市・六合(ろくごう)夜市。夜間は歩行者天国となる広い通りをそれこそ人波が占領、長さ1キロどころではないように見える。これほどの人だかりを見ることもそうそうない。台湾の人口密度が世界第2位(第1位はバングラディシュ)というのも頷ける。
それにしても、台湾──ここは紛れもなく「中国」的世界、けれど何かが決定的に違う、というのが今回の旅全体を通しての感想。上海とも広州とも違う。それはやはり──台湾人としてのアイデンティティ問題などは勿論あるとしても──街行く人々の顔つき、その明るさ、開放感だろう。


高雄市中心部を流れる愛河(あいが)のナイト・クルーズ。河畔の整備や景観作りはまだこれからという感じ。

【高尾─台北】
高雄では、ツアーガイドが「世界で二番目に美しい駅」と言う美麗島(台湾島の別称)駅へ(一番目は聞き忘れた)。どうやら、イタリア人デザイナーにより地下1階フロアーの天井や柱に施されたステンドグラス・アートがその理由となっているようだ。

続いて、日本統治時代末期の1940年に建てられた旧高雄駅舎(高雄願景館)。新駅舎の建設に際し保存を望む声が寄せられたので、総重量3500トンの駅舎をそのまま台車に乗せ、1日に6メートル、14日かけて、ズルズルと82.6メートルを移動させたという。

新幹線に2時間乗って、台北に戻る。
昼食に予定されたレストランは、最近日本でも支店が増えた、小龍包で有名な鼎泰豐(ディンタイフォン)の本店。これが大変で、店の前の異様な人だかり。200人近くは居たのではないか。ほとんどが団体予約者のようだが、聞けば、予約自体がほとんど意味がなく、その時間に来ても1時間待つなんぞはざららしい。13年前に来た時は小龍包に感激した。舌が肥えたか麻痺したか、40分待って食べた味は……。

故宮博物院、中正祈念堂へ。同郷の華僑から寄贈され蒋介石が乗ったというキャデラック(のお尻)が気に入った。


夜は、台北からバスで小1時間の九份(きゅうふん)へ。山腹斜面の入り組んだ路地に小さな店が並ぶ。
この町はかつて金の採掘で発展、日本統治時代に最盛期を迎えたものの閉山後衰退し、人々から忘れ去られた存在になった。それが1989年、侯孝賢監督映画『悲情城市』のロケ地となったこと、加えて宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のモデルになったという話から、特にこの頃は若い日本人観光客が大挙して押し寄せる場所となったようだ。時間が止まったようなノスタルジックな風景。この夜も、大はしゃぎの若者たちの過半が日本人だったのではないか。関西弁などもどんどん耳に入ってくる。次第に、自分が一体どこに居るのか……不思議な気分に陥った。



台北に戻り、繁華街の一つ、西門地域へ。どうやら若者が集まる街のようで、だいぶ夜も更けているが、駅前では若い男性による路上ライヴが行われていた。

【台北─福岡】
台北101。地上101階、地下5階で、高さ509.2m。2004年時点では、世界一の超高層建築物。最上部は霞んでいた。

帰国。往路で味をしめて、帰りの飛行機は進行方向左側(つまり西側)座席を所望。主翼が邪魔だったが、随分長い時間、まさに日没が寄り添ってくれた。いかにもくどいが、どれも捨てがたいので4枚掲示。特に最後のカット、燠火のごとき紅の帯は、空の色としてはこれまで見た記憶がない。
今回の旅では、往路・復路とも、前に書いた、夕暮れ空を目的地に向かって大きく突っ切る快感をしっかりと味わうことができた。雲の上だって、夕暮れシーンは日々異なるのだ。




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