■「日本人になる」とはどういうことか──『また「サランヘ」を歌おうね』への感想をめぐって |
【友美という日本人女性が在日韓国人二世・李卜之と結婚した話の小説『また「サランヘ」を歌おうね』(花乱社)を手にしてかなり時間がたった。在日と日本人の結婚ということだが、私から見れば日本人同士の結婚あるいはそのバリエーションにすぎないと思っていた。
しかし、その内容は私の想像をはるかに超えていた。周囲の反対を押し切って結婚、その後も続く根強い差別と偏見などを読みながら、明治時代の話、近代化以前の話のように感じた。この小説が部落解放文学賞を受賞されたこととは違って、私は在日への批判が湧いてきた。日本へ適応するために何代がかかるのか、永遠に不可能であろう。
誰でも故郷や故国に懐かしさをもっている。それはそれでよい。しかし、それに執着しすぎると故郷へ帰還するしかない。私は日本人になれとは言わない。国籍にかかわらず自然な人間になるべきであろう。自分が住むところを嫌がっては幸せになれないからである。この小説から受け取ったメッセージは大きい。一読を望む。】(→崔吉城との対話)

東亜大学東アジア文化研究所所長でもある崔先生とは、2012年、ロシア人作家による記録文学『樺太・瑞穂村の悲劇』(コンスタンチン・ガポネンコ著)出版のお世話をいただいた間柄。社会科学者らしい客観的で公平な思考、歯に衣を着せぬ──きっと、「日本語」で書いていることにも幾分由来しているとは思うが──発言にはいつも敬服するしかない。関門海峡を眼下に見渡せるマンションにお住まいで、韓国人男性ではまずあり得ないらしいが華道を嗜む方でもある。
●『樺太・瑞穂村の悲劇』についての記事
→モスクワからの電話取材
→ガポネンコ氏と辺境の民族誌
*
一方、少し前に電話でお話しした方は、1946年、山口県生まれの在日韓国人二世。本書を読んだ感想として、著者夫妻に対し「在日ということについての考え方・思想が甘い」と語られた。日本国/社会が「在日」に行ってきた差別や迫害はそんな生易しいことではないし、そう簡単には日本人は変わらない、という主旨だったと思う。就職その他様々な差別を体験、本国では「パンジョッパリ」(半日本人)と言われて悩みつつ韓国伝統文化に傾倒、「在日」の理想的な生き方を求め続けてきた、と。
同化/闘い、国籍の超越──このお二人の話は、「日本へ適応するために何代がかかるのか、永遠に不可能であろう」という究極のところでは一致しているとも言えるが、いつから、どのような経緯で「在日」となったのかの違いからか、見定めているものが異なっている。
そこにある重大な亀裂こそ、他ならない私たちの国、私たちの近代史が生み出したものである。即ち「在日」というのは、対韓国・朝鮮問題ではなく、まずは日本国内の──日本人自身に突きつけられた──問題である。
読者カードによる感想も紹介しておきたい。
【今年60冊目にして、涙、涙の本でした。つづく愛の力に感動致しました。
友美さんと同じ年頃の娘の親として、三次さん〔友美さんの父〕の気持も尤もに思えるし、最後に「ボクユキ〔友美さんの夫〕はまちがいなか」に救われました。
この本を註文したのは、知人の娘さんが長い交際の末、韓国の男性と結婚されました。お母さんの心配をずっと聞いていましたので、そのお母さんの参考までに贈りたく、良い出会いでした。】女性、76歳
【1、「父のなまえ」は映画化して欲しいと希いながら、笑いと泪で読了。2、「母の島」も我が母の介護と重ねてしみじみと。この1、2が圧巻。ご健闘の程、拍手と共に御礼を。】女性、65歳
*
本文(「父のなまえ」)から、「帰化」をめぐる山本夫妻の遣り取りを掲げる。
【「ボクちゃん、帰化するのが嫌なの」
私はさりげなく聞きました。
「嫌とか、そんな問題ではないんだ。友美のように、日本人にはどうしてもわかってもらえない部分があるのさ」
「そんなふうに突っぱねなくても」
「友美に当たっているわけではないよ。日本の国の制度がね」
「私だって日本人の一人よ。私に言われているみたい」
「それは違うよ」
「どうするの。父になんて言うの」
(略)
私には卜之のこだわりが理解できません。
──籍を変えてもボクちゃんには変わりない。日本で生活していくのなら暮らしやすい道を選ぶ方が得策じゃないの。と、私は声に出しそうになります。夕飯は気まずいものでした。】
→花乱社HP