■弔うということ──御巣鷹の尾根と『他者と死者』 |
当時私は新卒で入った会社に在籍中で、その日(1985年8月12日)は長崎市に出張、街頭の電光掲示板で事故のことを知った。同年暮れにそこを辞してもう一人と一緒に新しい出版社を興すことになるのだが、炎天下で速報掲示を見つつ、全く身勝手な脈絡ながら、人生誰にも “分かれ道” があって、もう躊躇っている場合ではないという気持ちが固まったのを覚えている。
今朝の「朝日・天声人語」が、遺族でつくる「8・12連絡会」のことを取り上げている。このところ御巣鷹の尾根には名古屋の中華航空機事故やJR宝塚線事故などの遺族も登っている、と。遺族がつながる「聖地」。こうした場所が自然発生(?)的に「聖地」になること──それはとても納得できる。死者は、国家が祭り上げるものではない。政教分離原則すら弁えない無知な輩が舵取りをしているのなら尚更だ。
なお、改めてウィキペディアを覗いてみて、当時、多くの報道で「御巣鷹山に墜落」と伝えられたが、実際に墜落した場所は「高天原山(たかまがはらやま)に属する尾根」であると知った。これは私だけか……。
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この時季なので、「戦争」や「死者」のことに “触れて” しまうことが多い。ついでながら、9年前に書いた原稿を掲載しておきたい。前に所属していた会社で、2004年に内田樹氏の『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』という本を出し、それをエッセイ的に紹介したもの(「はかた版元新聞」掲載稿を少し手直し)。私にとってとても大事な文章だ。本書は第4刷まで出し、文春文庫に入れられてしまったこともあってか、現在品切れ。在りし日の単行本の姿も掲げる。なお、一見、不謹慎なタイトルのようだが、途中に「 、」が入っていることにご注意を。

ファンタジックな、「死者」の話
昨年10月に刊行した『他者と死者』(現在2刷)について書かせていただく。
2002年12月、私が事務局をしているライオンとペリカンの会(HP有)で内田樹氏に講演会をやっていただいたことが、本書刊行のきっかけとなった。その年6月、会の読書会で取り上げた『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)があまりに面白かったので、福岡での講演をお願いしたところ、確かその頃でも内田氏は十数冊分の執筆予定を抱えられていたにも拘らず快諾していただいた。
講演会翌朝、冬の日溜まりのような大濠公園内のレストランで、内田氏を囲み数人で食事をした。たまたま葬儀の話題となり、その少し前に父親を亡くされた内田氏から葬式の際の話を伺った。おおよそこういう内容だった。
親族(兄弟)間でも多少意見が分かれたが、結局、「型通りの葬式」を執り行うことにした(内田氏は「作法」を重んじる武道家でもある)。当日、遺族の誰も面識のない老人が、静かに涙を流しながら焼香をしている姿を見て、やはりこれで良かったと思った。関わりのあった人間それぞれに、心の中で「決着」をつける機会が必要である。一人の人間の「死」は、その家族だけのものではない。それは本来、公共的なものであり、閉じてはいけない──。
淡々と語られる内田氏の話に、それまで、他ならない「密葬」的な自己の葬式イメージしか描いていなかった私は、そういう考え方をする人がいるのか、さすが『「おじさん」的思考』(晶文社)の著者だ、と爽快な気分になった(今でも「改宗」はしていないが)。
「葬式なんて世俗(生きている人間のため)の儀式だ」などと訳知り顔で言う人は多いが、そのことを「公共」という言葉でもってまっすぐに語る「大人」に初めて出会った気がした。
死の話は当然、生の問題でもある。「本来、公共的」であるのは、人の「死」に限らない。
乱暴に言ってしまえば、本書から私が受け取ったことの核心は、それがどういう「場」(家族、社会、世界……)であれ、「今ここにいる人間のことだけで考えていいのか?」ということである。「今ここ」しか想像せず顧慮しない在り方から、「善・倫理」(良きこと)を志向する「主体」(私)を立ち上げることできるだろうか、という問いである。
ポスト・モダン的「外部」やキリスト教的「原罪」の話とも、これは違う。他者や主体や善について語るエマニュエル・レヴィナス(1906-1995、ユダヤ人でフランスの哲学者)の言葉はひどく屈折していて、だからこそ生々しい。そして「有責性」。
ホロコースト後、「何事も起こらなかったかのように倫理や他者について語ることは、ヨーロッパの戦後世代には許されなかった」。レヴィナス的「主体」は言う。「有責なのは私一人である。それは誰も私に代わって引き受けることができず、誰もそこから私を解き放つことができないような有責性である」
その時、レヴィナスが向き合っているのは、神ではなく「他者」、それも「死者としての他者」である。だが、レヴィナスにおける「死者」は、自己の善性を根拠づけたり(自分の都合で死者を呼び出す者は多い)、何かの「報復」(→テロ)を正当化するための “存在” ではない。
「人間の善性を基礎づけるのは、人間自身である。同罪刑法的思考に基づかず、神の力をも借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を基礎づけるのである」(終章より)
読むたびに新しい発見に驚き、螺旋階段を伝ううちに「天上」へと導かれてしまうような構造を、この本は持っている。引用された文章がどれも見事だ。いつ知れず、それらと地の文とが美しい和声(ハーモニー)を奏で始め、やがてほとんど一つの「思考」として新たに生成されるドラマに立ち会っていることに私たちは気づく。
ある女性読者から「物語として、感動しながら読んだ。百の論理では、人は一歩も動きません」という感想をいただいた。それは、私自身のものでもある。超越的なものをそもそも持たず、死者への「弔い」方も見失ったこの国の人間にこそ、屈折したレヴィナスの言葉がよく届き得る可能性がある。
内田氏自身、「この本に書き連ねたのは私のファンタジーである」とウェブ日記に記しているが、そのファンタジーに導かれて遭遇するレヴィナスの「無限なる有責性」という途方もない考え方は、性懲りもなく「生」の意味を求めてしまう気持ちのどこかに、いつか磨かれることを待っている原石のように残ってしまう。
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今ここにいる人間のことだけで考えていいのか?──と私は書いた。
偉そうなことまで言ってしまうと、私たちは誰も「死者としての他者」、そして「未来に生まれる(=未生の)他者」に「責任」を負っている。
「今ここにいるメンバー」のことだけで考える人間──の内でとりわけ質(たち)の悪い連中──が始めるのは、例えば大量殺戮を必然とする戦争だけではない。私たちはついこのごろ、この国が、最終処分までに数万年以上の隔離・保管が必要という核廃棄物をどんどん生み出し続け、さらにそれをもたらす “欠陥技術” を臆面もなく輸出し続けていることを、自分たちの問題として改めて突きつけられたばかりだ。
[8/15最終]
→花乱社HP