■『葉山嘉樹・真実を語る文学』の感想が届いた |
初秋。今年読んだ本の中で一冊は、と問われれば、『葉山嘉樹・真実を語る文学』を挙げたい。
正直なところ葉山嘉樹の作品は、『セメント樽の中の手紙』、『海に生くる人々』、『裸の命』と、僅かしか知らず恥じ入るばかり。けれど、どれも衝撃を受けた作品であった。
なかでも、高校時代に読んだ、『セメント樽の中の手紙』の強烈な不思議な印象は、今もって色褪せることなく胸底に残っている。
その後、図書館在職中に訪ねた、福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)の高台にある文学碑の右には、葉山の筆で、「馬鹿にはされるが真実を語るものがもっと多くなるといい」が刻まれていた。
本書のタイトルに魅かれ、手にして熟読させていただいた。というより、還暦を迎えたこの歳になって、改めて葉山嘉樹を知ることができたように思う。
特に、「Ⅰ 葉山嘉樹と現代」の中の講演録は興味深い。「1 だから、葉山嘉樹」は粋な小見出しに誘われ、いつの間にか頁をめくってしまう。何度読んでもおもしろい。
〈時間の流れは不思議で恐ろしい〉に始まり、〈手紙ではなくビラだったら、平凡な作品に終わっていた〉にある、「手紙だが、しかし、宛名がないという点」、視点に納得する。〈文学のないところに、運動は生まれない〉には、「言葉や対話を繊細に扱う感覚や想像力なくして、運動も何もないですよ」、再認識する。〈みんな花ちゃんになれ〉には、「偶然にまかせる葉山嘉樹の文学の特徴」。最後に〈葉山嘉樹は、口を噤まず、踏ん張った〉で、「だから、葉山嘉樹なんです」。
こういう講演だったら私も聴講したい、続編を拝聴したいと思わせられてしまう。
そうして頁を進めると、「Ⅱ 葉山嘉樹・人と文学」、「Ⅲ 葉山嘉樹・回想とエッセイ」へと繫がり紡がれてゆく。その中の、「6 葉山嘉樹の転向問題について」。 「“転向した”・“しない” を語る次元から離れた位置にあって、レッテルを貼られることなど意に介さない存在になっていたのではないかと思わずにはいられない」のくだりには、私も思わず頷いた。
初公開資料も多く、葉山嘉樹発掘集成版。やはり、真実を語る文学であることに感動させられた。郷土福岡出身の葉山嘉樹、ぜひ一読をお薦めしたい。

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本書は2012年5月刊行だが、今更古びる話題でもないどころか、葉山については今こそ読まれていいのではないかと思っていたところなので、こうした感想はとても有難く嬉しい。
刊行直後に書いた案内文を再掲する。
葉山嘉樹(はやまよしき、1894~1945年)は福岡県京都郡豊津村(現みやこ町)生まれ。プロレタリア文学の代表的作家で、主要作品に『セメント樽の中の手紙』、『海に生くる人々』、『移動する村落』など。『セメント樽…』は一時期教科書に取り上げられたかで、若い人のほうがよく知っているようだ。
編者・三人の会(堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会の略称)は、1956年に堺利彦顕彰会としてみやこ町で発足、昨年話題になった黒岩比佐子の『パンとペン──社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社)にも取材協力をしている。
本書は、昨年11月に同会がみやこ町で開催した講演会「葉山嘉樹と現代」の記録をベースに、その全体像と魅力を伝えるため主要な論文・エッセイなどを併せ、初めての葉山嘉樹論集として編んだもの。序文は佐木隆三氏にいただいた。
とりわけ、巻頭の楜沢健氏(文芸評論家、『だからプロレタリア文学』〔勉誠出版〕など)講演「だから、葉山嘉樹」が面白い(私は講演を聴いてすぐに、70年代刊行の『葉山嘉樹全集』全6巻〔筑摩書房〕を古書価1万円程で買った)。これは「『蟹工船』よりも『セメント樽の中の手紙』の方が断然、今の時代にぴったりのはずだ」とする同氏が、葉山がプロレタリア文学の範疇を超えて世界文学につながる作品を生み出したことを明らかにした上で、社会的格差や貧困が新たな様相のもとに問題となっている現代でこそ読まれるべきだとして、葉山嘉樹の現代性に焦点を当てたもの。丁寧・懇切な語り口の中に、理不尽な時代や社会に対して「口を噤んではいけない」という強い想いが感じられ、ぐいぐい惹き付けられる。
1944年、葉山は開拓移民として「満州」に渡り、45年10月、引き揚げ列車の中で病死した(52歳)。一時期船員であったことからその足跡は日本各地に残り、室蘭市・岐阜県中津川市・長野県駒ケ根市、それにみやこ町に葉山嘉樹文学碑がある。本書タイトルは、中津川市とみやこ町の碑に彫られている「馬鹿にはされるが真実を語るものがもっと多くなるといい」(葉山の好きだった言葉)から取った。
「セメント樽の中の手紙」は短いし、全文が読める→「葉山嘉樹 セメント樽の中の手紙─青空文庫」。
[室蘭市の葉山嘉樹文学碑、主碑と副碑/近藤健氏撮影]


[8/29最終]
→花乱社HP