■菊地信義氏の装幀から思うこと |
その菊地氏、1977年に装幀家となり、これまで1万数千点を手掛けてきたという。物凄い数だ。一人だけでの仕事だろうか(「朝日新聞」2014年8月19日)。
本の風合いは読書の記憶を呼び起こすものだ。共感、反発、疑問。装幀は形の違う「錨」として心に沈む。だから「広い読者を迎え入れる姿を作る」と思ってきた。そのために作品の本質に迫る必要がある。
全く同感だ。
私の本棚から適当に選んでみた菊地装幀4点。もはや色褪せているが、これらはいずれも刊行直後、わくわくしながら読んだ本だ。装幀に色気と気品がある。
槿:1980年/椋鳥:1980年/奇蹟:1989年/水の女:1979年


タイポグラフィー(文字の配置)を武器にする。(略)成功しても、同じ手法は二度と使わない。「画一化にあらがい、消費されないように。僕は、徹底的にずらし続けるしかない」
本の小口を黒塗りにして、ページに指紋が残るようにしたところは面白いと思う。汚れとして好まない読者もいるだろうけど。
ただ、たまたま私の購読書がクロスしなくなっただけかも知れないが、近年、菊地氏の名前をもっぱら文庫本で見掛けることが多くなった。いや、おそらくそうでないと1万数千点までいかないだろう(仮に一日2冊こなして、17年間で1万2400点程だ)。勿論、それだけ菊地氏に装幀を依頼する編集者が多いからだろうが、「菊地氏に頼んでおけばいい」となっていないだろうか……とは余計な心配か。
言うまでもなく文庫本は規格が同じだし、文庫化にあたりほとんどが新しい装幀となるが、取り組む側の意識や熱意は単行本段階とはやはり異なって当然だろう。そして、これも文庫本サイズにおける面積比率からくる印象が強いせいかも知れないが、このところの菊地装幀はタイトル文字のサイズに頼りすぎの嫌いはないか。「タイポグラフィー(文字の配置)を武器」とする場合、文字をやたらデカくし、「徹底的にずらし続ける」だけで、勝ち続けられるだろうか。

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ついでに、手近にある本から私の好きな装幀を2点掲げたい。
恋愛のディスクール・断章:(装幀者名なし)1980年/陽水の快楽:戸田ツトム・1896年
『恋愛の…』は、装幀というより装画のセンスが絶妙だ。確認はしていないが、原著での選択か。それで言えば、私にも「ジャケ買い」(ジャケットで買ってしまう)経験はあるが、やっぱりまずは本の内容(本質)が大事だ、とここでは言っておきたい。本の内容を措いて装幀が独立している──例えばどの本を見てもその装幀者が分かってしまう、というのは、ちょっと違うと私は思っている。本というものが商品であるなら、装幀は、まずは商品パッケージだろう。

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→花乱社HP
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