■昨日と今日、寒天に萌えるもの──週替わりの夕暮れ[1.11-12] |
風は冷たかったが、いつものウォーキング先、西ノ堤池の写真映りは穏やかだ。
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寒天に、我が身の萌える切っ先を差し出す枝。
![■昨日と今日、寒天に萌えるもの──週替わりの夕暮れ[1.11-12]_d0190217_21333193.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201501/12/17/d0190217_21333193.jpg)
【12日】
幼い頃から、父母の誕生日はすんなり覚え込んでいた。父が5月5日、母が1月15日。即ち二人は、なんなら対比したとして実際にそれらしい気性やキャラクターだったかどうかは別として、「こどもの日」と「成人の日」生まれの男と女だった(参考→「いつの間にか父を超えていた」)。それが2000年から、「国民の祝日」たる成人の日は1月の第二月曜日になった。
私自身は成人の日の集まりにも、高校や大学の卒業式にも、地元に居なくて全く無縁だった。今より騒然としていた時代だったし、勿論コスプレなんぞも問題にならなかった。さて、今の時代に「成人」するというのは、どういう気分のものだろうか。
*
我が家の玄関先の黄色い花。マーガレットコスモス(イエローエンジェル)と言うらしい。その佇まいに、どことなく襟を正させられる気がする。おまえは、萌えているか、クールでいるか、と。
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シベリア抑留経験を大きな文学テーマとした詩人、石原吉郎(1915─77年)の詩を二つ。『断念の海から』(1976年)という(忘れがたい)タイトルの評論集があるように、石原は終生、「断念」ということを問い続けた。何事かの思いを持たなければ断念することもないが、ともすれば人は「断念し続ける」ことをも生きる理由にする。
若い人よ
私はちがうのだ若い人よ
私はちがうのだ
私の断念において
私はちがうのだ断念への
私の自由において
堤防はそのままに
堤防であり
空はそのままに空であることが
私の断念のすべてだが
しかしちがうのだ
通過することが生きることの
はげしい保証である爪先は
私にはとどかないのだ
若い人よ
私の自由において
私が疲れるのは
私の自由において
私が倒れるのは
私の自由において
いつの日にあっても
私が倒れうることを
自由なその保証として
私よ たじろがず
自由に立ちつづけよ
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