■句集に見る個と伝統──『手 藏本聖子句集』・『季題別句集 行路』 |
まずは、『手 藏本聖子句集』(六分儀俊英シリーズ 第7集)。

藏本さんは生まれも現住地も田川市で、元小学校教師。ホトトギス同人。本書はその40年に及ぶ句作の中から314句を選んだものだ。
『手』というタイトルを提示された後、私は迷わず、
触るるものみな握る吾子春隣
を帯掲載句に選んだ。その意図するところは即座に伝わるだろうし、春隣(はるとなり)──即ち春を待つ心持ちはまさに今現在のものだからだ。
この句に明瞭なように、藏本さんは清新な感性とやさしい言葉で、自分の暮らしてきた九州・筑豊の自然風土、そこで出会った大切な人たち、そして小学生と接してきた日々を詠む。時系列に従い俳句を掲載、「大観峰/放課後/炭坑絵巻」の三つに章分けした。
そうした点で本書はいわば “自分史句集” という趣きを持ってはいるが、自分史一般と同じく、自然と社会の中に置かれた命の──にぎにぎする赤子、そしてその満面の笑みといった──素朴かつ普遍の真実にまずは届いていない限り、一つの表現が時代を超える可能性を持つことはないだろう。
新年・春・夏・秋・冬という季節の流れに即して、私の好きな句を掲げておきたい。
初鏡眉をきりりと描きけり
大阿蘇の終点のなき花野かな
ギブスせし足高くして母昼寝
ある日ふと少女となりし秋桜
雪降れば雪の民話を児に話し
*
もう一冊は、星野立子・星野椿・星野高士著『季題別句集 行路』(編集・発行:鎌倉虚子立子記念館、編集協力:俳誌『六分儀』編集室)。立子氏(故人)は高濱虚子の次女、椿さんは立子氏の長女、そして高士さんは椿さんの長男──即ち本書は、虚子の子・孫・曾孫という三代にわたる作品を、季題(季語)別に集成したものだ。

父・虚子から「写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつたと感じる」と激賞された立子氏は、1930年、初の女性主宰による俳誌『玉藻』(たまも)を創刊。『ホトトギス』姉妹誌たる同誌を、84年に椿さんが、そして昨年、1000号を機に高士さんが継承された。
俳壇の巨星にまで遡る伝統は重たいものだ。それを引き受け踏まえつつ、自己を取り巻く環境の中で「客観写生」と「花鳥諷詠」を試みる。それをさらに、どのように明日につなげていくのか──。三者三様の個性を生かしつつ一冊の調和も図ろうと、椿・高士の両氏は新吟も用意された。
こうして、211の同一季題による星野家の伝統俳句三重奏が味わえるだけでなく、作句の貴重な手引きともなる句集が出来上がった。
四季それぞれから、一組ずつを掲出する。
雛
雛飾りつゝふと命惜しきかな 立子
立子雛飾りてお待ち申します 椿
柳川の雨の落ち着き雛の宿 高士
百合
百合活けてあまりに似合ふ瓶怖はし 立子
野路の百合今開かんと一途なり 椿
百合の香の足元にまで雨催 高士
蜩
蜩や使またせて書く返事 立子
蜩の近くと思ふ遠さかな 椿
また違ふ蜩の鳴きはじむ街 高士
落葉
朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ 立子
落葉のせ水は流れを忘れをり 椿
まだ音とならぬ落葉を踏みに行く 高士
*
両句集とも題字を、俳人であり、書家・篆刻家でもある山本素竹氏(群馬県渋川市在住)に揮毫いただいた。その筆文字の存在感は実に圧倒的だ。いつもこちらの期待以上の装丁をしてもらっているdesign POOL(デザイン・プール)とともに頭を悩ませたのは、同一作家による書を用いながら、それぞれの句集の成り立ちと個性の違いを如何に意匠として具現できるか、だった。
五・七・五と同様、本のカバーはまことに小さな世界(画面)だ。だが、そこにもやはり一つの宇宙がある。そして、現今はカバーと一体と見なされる帯。『手』の帯には半透明のトレーシングペーパーを使用、書の勢いを削がないよう配慮した。『行路』の帯には明るいシルバーの地色を敷き、その上に赤いインクで惹句を置いた。行路とは、来し方のみならず行く末(未来)をも指すだろう。そこでは明るさ、それに何よりも情熱が必要だ。
結果、各々内容と意匠がどのようなハーモニーを奏でるものとなったか、両書の味わいの違いを、眼と掌で確かめていただけると嬉しい。
[『心のガーデニング』135号寄稿分を一部修正して転載]