■雨の観世音寺境内、週替わりの夕暮れ[3.8] |
![■雨の観世音寺境内、週替わりの夕暮れ[3.8]_d0190217_2253743.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201503/08/17/d0190217_2253743.jpg)
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この1300年近くの歴史を持つ寺の境内に入った時、まず目に入ったのが3本のメタセコイア。以前はもっとたくさん植わっていたらしい。屹立する幹から繊細な枝を広げるこの樹は──大楠などとは少しニュアンスの異なった──悠久の時間ということを考えさせる。
メタセコイアで私がすぐに思い浮かべるのが、かれこれ40年前に読んだ福永武彦の小説。学生時代の半ば、私は彼の小説に耽溺した。ただし、当時、福永武彦を読んでいるなどとは──いかにも少女趣味的ロマンティシズムを告白するようで──親しい友人にも言えなかった。
新作の広告を見ると翌日書店に走ったが、その習慣は最後の長編『死の島』(1971年)で途絶えた。そして1年経たずして私は、図らずも福永及びそれ以前の堀辰雄の文学で親しんできた(?)サナトリウムに入ることになった(結核体験については「「胸」に潜めた座標軸──川上三太郎氏講演を聴いて」で少し書いた)。
それはともかく、今回、手元の福永本を引っくり返してみたが、そのメタセコイアについて触れた作品がどうしても見つからない。その樹は確か小説の冒頭から出てきて、それを主人公が窓から眺め遣りつつ独白を始めるのだったが……。
捜す過程でのおまけとして、学生当時は気にしなかったが、福永武彦が一つのメタファー(暗喩)としてよく樹を登場させていることを発見した(「樹」という短編もある)。
いかにも『玩草亭百花譜』といった画文集も物した作家らしいが、そこでの樹は、自然世界の象徴としてでもなくアニミズム的な崇拝の対象でもない、あくまで近代的自我における内面を映すものであった。そこには愛や絶望や死が投影されていた。文学は病いや悪をも吹き込んでくる。
メタセコイアの件は、とりあえず宿題にしておこう。
*
日中は妙に暖かかったが、ウォーキングに出掛ける頃より太陽に紗が掛かり、幾らか冷たい風が吹き始めた。
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ピントが合っていないけど。
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よその家の庭に咲くミモザ。手を伸ばせば勿論届くが、これは古人(いにしえびと)に習い桜の如く手折って持ち帰る色合いものではない。
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寒桜が満開を迎えていた。
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