■桜は、疲れやあきらめに似たもの── |
桜に対し、私と同じようにへんてこな理屈をこねる御仁が居ることを発見した。作家・エッセイストの宮田珠己氏(「朝日新聞」3月31日付)。
なんだかぼんやりして、精彩に欠ける花だと思っていた。花ならもっと、情熱的で派手な色をしているべきだ。(略)
理性的で鮮やかな花がもっと他にもあるのに、なぜ猫も杓子も桜なのか。桜は、冒険しない人が愛でる花だ。そう思った。なまぬるすぎる。そして内向きすぎる。(略)
などと思う一方で、日本の伝統的な色遣いにはっとさせられることも実はある。
鮮やかでない色同士の組み合わせが、ふと美しく感じられる。(略)なぜ地味な色合いなのにいい感じがするのだろうと立ち止まる。
それはきっと桜と同じ側に属する美意識に違いない。(略)
認めたくはないが、それは疲れやあきらめに似たものだ。少なくとも私にとって、桜は疲れやあきらめの先、それを突き抜けた後の世界にある。そう考えている。
桜の下で飲んだり食ったりして自然の香りを遠ざけたくないし、桜吹雪に人生の無常を感じて納得したくない。それより、そのあとに来る青葉のほうに感情移入したい。
やっぱりこの人も屈折している。
私はシンプルにこう言っておきたい。
──桜はいつも、想い描いている時の方が美しい。それは、人々の幻想を糧にしつつ、毎春、薄ぼんやりとした狂気を運んでくる。