■グラデーションな一日──国東半島出張帰りの夕暮れ |
即ち本書は、地元の庄屋が文化7(1809)年に書き記した日記を解読・解説し、影印(えいいん。文書現物の写真版)をも掲げて紹介した本である。村政関係を中心とするめまぐるしい庄屋の日常が詳細に綴られているが、とりわけこの年は伊能忠敬の測量隊が小倉経由で同地を訪れており、一行を受け入れる村側の混乱振りを伝える貴重な史料だ。
さて、この日の聴講者は80人程。演題は、大分県立歴史博物館企画普及課長・原田昭一氏による「豊後における中近世の葬制・墓制の変遷」。講演直前に駆けつけた私は、本の販売などもあって前半部を聴き漏らしてしまったが、とても興味深いテーマ、分かりやすい語り口であった。
特に墓制について、中世では専ら石塔が中心で、供養が終わった後、中世人は物そのものにはあまり拘泥しなかったようで、石塔に使われた石が色々と別なものに転用されたこと、そしてそれが近世になると次第に墓石の形態となっていく、という話。死生観や宗教意識の変化が窺われる。
ただし、中世だ近世だというのはあくまで現代の目から見た話で、当然ながら歴史はそのようなくっきりとした境目を持つわけではなく、習俗・風習や暮らしのあり方はゆっくりと変わっていくということを忘れてはいけない、と。
私なんかが付け加えるまでもないことだが、様々な分野における緩やかでちょっとした変化が時間の厚みを持ってようやく、後世の観点から社会全体のはっきりとした画期だと認識され、一つの時代として括られ名付けられるのだろう。
何事においても、グラデーション的変化やグレーゾーンの存在、もっと言えば二律背反的な状況というものがある。例えば、若い頃私は、日本国憲法と自衛隊とはそもそも相容れないものだから、いつか(勿論、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」方向へ)はっきりさせた方がよい、と考えていた。
しかしこのところ、悪しきグラデーション的刷り込みとでも言おうか、(基本的人権や平和主義や三権分立や政教分離や文民統制をなし崩しにする)「憲法改悪」に向けての地均し的 “趨勢”──「タブーを作らず議論してもいいのではないか」という建前に覆い隠された「まず改正ありき」という機運──が、いつの間にか、かつ着々と醸成されてきているのではないか。「護ろう」というのは単に怯懦(きょうだ)なだけだ、と言わんばかりに。
だが、憲法と自衛隊の併存──この緊張を強いられるグレーゾーン的ありようもしくは二律背反的な状況にこそ、戦後日本の平和が辛うじて支えられてきたのではなかったか。敗戦から70年、もう忘れてしまっていいことだろうか。
夢と同じく、グレーゾーンを支え続けるのにも、知恵と勇気と力業が要るのだ。
*参考記事→流浪する戦後日本──映画『るろうに剣心』
えらく脱線したが、講演で面白かったもう一つは、「逆修(ぎゃくしゅ)供養」(予修とも)といって、生前にあらかじめ(自分の)死後の冥福を祈る仏事──即ち今で言う「生前葬」が昔から行われていたという話。いつ頃からか、「来世」という考え方(願望)が庶民に弘まったのだろう。
以上、本の販売で行ったのに、結構なおまけがあった気がした。
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ところで、この日は朝から春霞が覆っていて、国東半島の突端で大分県の姫島を見ることができるかどうかな……とは思っていたが、福岡市から大分自動車道を走り最短でも3時間かかるところを、高速と接続する宇佐別府道路の出口を間違えたりしてもたつき、往路はおちおち海を眺める間もなかった。
[豊後高田市にて]

帰りは、周防灘沿いに北上、仲哀峠に回り筑豊経由で。
相変わらず空には薄膜が掛かっている。だが日輪自体は、ずっと偏光した渦を纏い、何かドラマの予感を孕んでいるようにも感じられた。
[築上町にて]
川面の照り返しを見過ごしてしまうわけにいかない。

[新仲哀トンネルを下った辺り]
山と夕日を焦がれる気持ちが募る。

香春岳の傍を過ぎ、田川─飯塚から八木山バイパスまで直線道路が続く国道201号は、西に向かって広く見渡せて、夕日と出合うには好適なルートだ。

飛ばす車が多い中、路側に車を停めて、と思ううちに陽は沈んでしまったが、この日はむしろその後の方が楽しませてくれた。
大きな風景の頭上で、青紫から代赭色へ──空が刻々と複雑なグラデーションを描き続ける。
私にはどこか行かなければならない所があったような……という気持ちが訪れる時刻。

釣瓶落としの秋と違って、春の日が本当にゆっくりと落ちてゆくものだとして、これだけ楽しませてもらったならば、もう私はその悪口を控えなければいけないのかも知れない。

[4/25最終]