■ “東洋のパリ” はスクーター・サーキットだった──2〜6日・ハノイの旅 |
機中、ベトナム(本当はローマ字の並びや現地音に即してヴィエトナムと書きたいが、面倒なので)航空の機内誌を見て感心した。この、服/コーディネート/撮影/レイアウトの尖ったセンス。モデルに関しては言わずもがなだろう。
アオザイに特別関心を持ったことはないが、ハノイへの期待が俄然高まった。
やはり機内で、ようやくベトナムの地図をしげしげと眺める。日本と同様南北に長い地形で、総面積も近いが、「本土」と言われる部分だけで考えれば、南北の長さもほぼ同じくらいではないか。
北に中国、西にラオスとカンボジア、海を隔ててフィリピン──いやはや大変な位置にあるものだ。民族も入り組んでいて、おおよそ北部・中部・南部に分かれそれぞれ来歴も異なるようだが、ともかくこの地に生きた人々は相当な辛酸を舐めたことだろう。
ノイバイ空港着陸前。家屋が密集して点々と集落を形成、ベトナムのムラの成り立ちが想像される。
【ホアンキエム湖周辺】
この湖が、旧市街の拠点であり、市民の憩いの場となっているようだ。
湖の真北にある広場。観光バスやシクロの乗降所となっている。ケンタッキー・チキン店もある。
ちょうど今年は、ベトナム戦争終結(1975年4月30日、サイゴン陥落)から40年。私たちにとっても忘れるわけにいかない戦争だ。4月末まで記念の催しが行われていたようだ。
【ハノイ・スクーター事情】
多分、ベトナム国内の他の地域も同じだろうが、ハノイの見物として筆頭に上げなければならないのが、街を走り回るスクーターの圧倒的な数。乾期ということもあったかも知れないが、市民の一番の足のようだ。
まず道路を含む景観を撮ろうとして、スクーターが写らないようにするのが難しい。大きな信号の場合、車の前に何重にもスクーターが停まり、青信号でそれらが一斉にスタート、その後に車が続くという流れ。信号無視も多く、おまけに右側通行のここでは信号は常時右折OKで、歩行者が渡ろうとしてもお構いなくどんどんスクーターが回り込んで来て擦り抜ける。街なかに信号自体が少ないし、路地も然りで、至る所縦横無尽で、どんな道でも横断には注意と度胸が要る。
乗り手は老若男女問わず。アオザイ姿の女性は勿論、4メートルはありそうな金属板を担いだ人、ノーヘル姿(違反)もたくさん見たし、スマホ(おそらくマップ)に目をやりながら走っている若者も居た。
後でガイドに聞くと、勿論運転免許は必要で、多いのは排気量100CC程度で20万円程、ハノイ市内の大人の二人に1台という概数らしい。人口約650万人からすると、200万台程か。ホンダが半数を超えている、と。
ベトナムは「自転車の国」というイメージを持っていたら、それはもう古いようだ。スクーターが多いのは、勿論車がまだ高いからで、韓国製の安い車でも200万円はする、と。
2010年の人口比率で、20歳未満35.2%、65歳以上6.3%という若々しいこの国、いつかは車ばかりで大渋滞という日が来るのだろう。
1台に大人二人+14歳までの子供一人が認められている、と。大人4人で、今からレストランだろうか。
スクーターはどこでも駐めてよいらしく、あちこち歩道が占領されている。
下は、旅する大型ハーレーではなく、単に積み荷の多いおじさん。
この後、夜間通りがかった薄暗い交差点で、双方向合わせて200台もあろうかというスクーターが、青信号となり長々ドドドーッと交錯していた際には、暴走族の集団走行のような地響きがした。
スクーター天国の如きベトナム。旅行者には分からない規制も多いだろうこの社会主義国において、その自由奔放・勝手気儘──勿論、当事者たちにはそれなりの走行ルールがあるだろうが──な走りっぷりには、社会的なガス抜き装置のような、或いは反抗の土壌のようなものを感じてしまった。
警察官もあちこちうろついていたが、ガイドによれば彼らも「自分も違反した乗り方をすることがあるし……」ということだし、第一、例えばノーヘル姿を見掛けても、この交通量ではそのスクーターを停止させることはできないだろう。言うまでもなく、社会主義と「職務に勤しむ」労働者根性というのは、そもそも相容れない。
【散策中に見掛けた建物】
ベトナムは長い間、今で言う「中国」の侵略と支配を受けている。「日本とベトナムは色々と関係が深く、一つの共通点として双方とも元軍に攻められたこと。元の時代にはベトナムは三度、元軍を撃退、日本に三度目の元寇がなかったのは、その前にベトナムが元軍を敗退させたからだ」とガイドはしきりに言っていた。確かに元は、1258・83・88年にベトナムに侵攻、2・3回目の間の1274・81年には日本まで来ている。
次に、1887年、フランス領インドシナ連邦成立以降──短期間の日本統治を挟んでの──70年に及ぶフランスの支配。そして、南北分断下のベトナム(対米)戦争。
今でもフランス植民地時代の建物が立派に残っているし、食べ物にも、どことない全般的な風情にもエキゾチシズムを漂わせているのは、フランス統治の名残があるからだろう。ヨーロッパにも綺麗事では済まされない時代があったのであり、被支配側もそれはそれで、複雑で猥雑な環境を逞しく生きていくものだ(「鼓腹撃壌」とはこうした様を言う)、という一つの典型をベトナムの在りようは思わせる。
下は、レストランの壁に掛かっていた古い写真。フランス統治時代か。
ハノイ教会。
大劇場(オペラ座)とその前の広場。
【ホー・チ・ミン廟】
市内観光ツアーの最初はホー・チ・ミン廟。2時間並んでようやく入れるということもざらだという話だが、ガイドの手配で15分程で済んだ。
建物の中には、衛兵4人でがっちりと守られたガラス張りの棺の中に、永久保存処置をされたホー・チ・ミンの遺体(私には蠟人形に見えた)。その周りを立ち止まらずに巡って、見学は1分でお仕舞い。
本人は火葬およびベトナム北・中・南部にそれぞれ分骨を望んでいたらしいが、宗教でもイデオロギーでも、誰かを祭り上げて民衆に強要するのが世の理(ことわり)。そうしないと、自らがぐっすり眠れぬ輩がいる。まずは「ホーおじさん」を拝んでから市内を巡れ、という社会主義国の計らいか。
【シクロに乗って】
こういう欧米人的植民地趣味は元々私にはないが、ツアーに組み込まれていたもの。だが、実際に歩けば危険に満ちあふれているストリートを微風に吹かれながら眺めるのは、まあ心地よかった。
あちこちで、太い束にも見える電線が垂れ下がっている。電柱も概ね低いし、木の枝にも平気で電線を懸けている。「スクーターで走っていて、首に引っ掛けて死んだ人が居る」とは、嘘か真かガイドの話。
【市内点景】
オオバナサルスベリの花、と聞いた。
ジャック・フルーツ(パラミツ)。
元々は孔子を祀ったベトナム最古の大学・文廟にて、たまたま卒業式の日だったようだ。
ここにもメリーゴーランドが。何故か私はこれを遣り過ごすことができない。幼き日を懐かしむのではなく、人の世の儚さを映して廻る走馬灯の如きものとして。
天井を開閉式にしたレストラン(何でも有りのベトナム居酒屋)から見上げて。夕空に様々なフォルムが浮かぶ。
ちなみに、私は食事や飲食店のことには極力触れない前提にしているが、どこの国に行くにしても、そこでの食事が旅の一番の眼目であることは間違いない。ここハノイでも勿論そうだし、フリー・タイムにこの店で食事をした時新鮮だったのは、鶏肉でも豚肉でも、頼んだメニューの多くにライスペーパーが添えられていることだった。
春巻に関しても、ガイドブックによれば、ホーチミン(旧サイゴン)市など南部地域は生春巻、ハノイ市など北部地域は揚春巻が主流ということだったが、要するに、「ベトナム名物・春巻」という料理があるわけではなく、ここではなんでもライスペーパーで包んで食べるのだ、ということ。焼肉などを野菜で包んで食べる韓国とはまた違った、ベトナムの「包む文化」というものが考えられるのかも知れない。
【世界(自然)遺産・ハロン湾へ】
ハロン湾へは、ハノイからバスで3時間半程度。私も海・山は好きだが、こうした自然景観の印象はその時々の天候に大きく左右されるし、特に海外旅行においては、往復の道すがらでごく普通の暮らしぶりに触れることの方が楽しみだ。
ガイドの話によると、ベトナムの家屋は一般的に間口が狭く奥が深い形状になっている、と。高温多湿の風土なので通気のためらしい。とすると、長辺方向には前面を塞ぐ壁を極力作らない、ということになるだろう。
ベトナムでは地震がほとんどなく、家の造りもベースは煉瓦を積み上げるだけらしい。道路脇の家屋は思い思いの意匠を凝らしていて楽しい。
ちなみに、ベトナムでは出産奨励のためもあって、子供が結婚する際、国から土地が与えられるという話だった(この頃半分居眠りしていたので不確か)。
この国では未だ土葬が多いのだと。火葬することに抵抗があるようだ(その気持ちは分かる)。それで、土葬にして仮の墓をこしらえ、3年経って掘り出して洗骨(奄美・沖縄に一部残っているようだ)、正規の墓に葬り直す。
写真の墓は仮墓だろうか。
ハロン湾は、要するに海の桂林みたいな所。1600もの奇岩があるとか。
奇岩の中には鍾乳洞がある所も多いようで、1993年に発見されたティエンクン鍾乳洞を探訪。
帰り道、バスは夕陽を追って走った。
観光最終日は、7〜19世紀の遺跡群のあるタンロン城址(世界遺産)見学。
【ハノイ─成田─板付】
雲の上に出ればいつでも見られる彩りかも知れないが、あのすこぶる人間くさい猥雑な世界から戻った私の眼には、文字取り「天上」に見えた。
地元に戻り、上空から眺める福岡ドーム周辺。
【旅を終えて】
2008年にマカオを訪れた後、東南アジアの主要都市に行ってみようと思い始めたのは、このところの経済的発展と(「独裁と開発」ではなく)「自由と民主」の進展を垣間見たいというのは勿論だが、父の世代(のこの国)が何故こんな所にまで戦争をしにやって来たのか、その夜郎自大ぶりを現地に立って肝に銘じたい、ということもあった(訪問地を下記に一覧)。酒宴での父の十八番は「酋長の娘」であった。今でもそのだみ声(わたしのラバさん 酋長の娘…)が耳に残っている。この歌自体はミクロネシアのトラック島の話をモチーフにしているようだが、では、自分の中に図らずもそうした(対植民地意識を胸底に秘めた)“南洋幻想” が受け継がれていないか……。
この国近代における、刷り込まれて潜在化した対外意識には他にも、「中国」に対する屈折・錯綜した想いとしての “大陸幻想” があるだろうし、東南アジア地域で言えば、何しろ私は『怪傑ハリマオ』を熱心に観た世代だ。こうした手前勝手な幻想や潜在意識は、自らが意識的にぶち壊さなければならない。
さて、ベトナム・ハノイの街は意想外に楽しめた。街なかに涼やかさをもたらす大きな木立それに湖沼、東洋と西洋が融合したエキゾティックな町並み、通り沿いのヴァラエティに富んだ店々、暮らしを如何にも逞しく楽しんでいる様子の人々……これほど自然と喧噪とが抱き合わされた都市も珍しいのではないか。その上ここでは、日々あらゆるストリートでスクーターが待ち構えていて、この困難な世界を生き延びていくための身のこなしとファイティング・スピリットまで鍛えてくれる。
[5/16最終]
2008年11月 マカオ(ブログ記事無し)
2011年7月 シンガポール→シンガポールの昼と夜
2012年11月 タイ:バンコク、アユタヤ(ブログ記事無し)
2014年5月 台湾→幻惑的台湾、そして高度1万メートルの夕暮れ
*ついでに
2013年9月 イタリア→イタリアの光と影
*その他、釜山行は何度か書いている。