■鶴見俊輔の文章 |
私はある頃から、戦後思想でまず見るべきは、丸山真男(1914-96年)、吉本隆明(1924-2012年)、そして鶴見俊輔(1922-2015年)だと思ってきた。これですべて故人となった。
丸山は、戦前・戦中の日本、特にその超国家主義(全体主義)の論理と心理を検証・分析し、天皇制国家における核心には空虚なもの(=無責任性)があると現在にもそのまま通じる論を展開、さらに日本人のアイデンティティを特徴づけている精神性の古層にまで遡り、その根底的な批判者として戦後の政治学を領導した。吉本(→「吉本隆明についてのメモ」)は、丸山に対してはその視野には「大衆」のありよう(大衆の原像)が抜け落ちているとして批判し、「個─国家」の関係における幻想性(共同幻想)や「美」をめぐる言語論を基本モチーフに、「知」の体系を目指す独自の思索と批評を積み重ねた。そして鶴見は、思想を広く捉えて戦後の大衆文化(サブカルチャー)にまで眼を向け、思想の価値はその日常の在り方(態度)でもって支えられるとし、個と生活の現場から言葉を掬い上げ、様々な社会活動に関わり、柔軟で含蓄に富んだエッセイや評伝を書き綴った。
丸山─吉本─鶴見。時代と成り行きからして否応ないことであったが、正直私は、この順序通りに3人に──鶴見でもって丸山・吉本を解毒するためにも──遭遇して良かったと思う。とりわけ大衆性や生活に根拠を置く鶴見俊輔という存在があったことは、戦後の宝のようなものであり、そこに救われる想いを持つ人は少なくないと思う。
今私には、鶴見俊輔について何かまとまったことを言う余裕も能力も蓄積もない。ただ彼の顔写真を掲げようと本棚からランダムに取り出した本の、自分が鉛筆で傍線を引いた箇所に改めて読み耽ってしまうだけだ。誰もがそうであるという以上に、どの文章を取り上げてもその片言隻語にこそまさに鶴見俊輔が息づいている。「文章に芸がある」ということでは、方向性は全く逆だが、小林秀雄と双璧ではないか。
以下、『思想の落し穴』(岩波書店、1989年)から適宜省略して抜粋。
*個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない。世界全部を変革するのでなければ思想ではないという考え方は、有効性をテコにとって簡単に自分が転向してしまうか、あるいは非常に残虐な思想に向かわせます。(「昭和精神史」)──これはまさに吉本批判だ。
*私は右翼思想は右翼思想で重要なものと思うが、占領下に占領批判をしなかった右翼思想というものは、信頼しません。(「昭和精神史」)──今で言うなら、ただ米国追随が主題の「戦争法案」を批判しない右翼は、その名に値しない。
*結局、ローリング〔東京裁判に関わったオランダの判事〕が言うのには、この東京裁判に意味があるとすれば、こういう裁判がニュールンベルグと東京で成り立つとすれば、今後、世界のどの国のどの個人といえども、自分の国がよくない戦争を、侵略戦争をしていると思うならば、それに反対する義務がある。それは世界の法によって保障される。それがニュールンベルグと東京裁判の規定だ。だけど、そのような教訓をニュールンベルグ裁判と東京裁判から受け取った人は、どれだけいますか。(「昭和精神史」)
*人は忘れたいと思っていることによって仕返しされるもので、これからの時代に、日本人にそういうことが起こりはしないか。日本人にとっての、長い戦争時代の記憶がそれに当たると思います。戦争中を考えるときに、だれが間違いがなかったか、そういうふうに人を探して、それをなぞろうとするから、これではあまり同時代に生きる力は出てこない。日本で学校教育が広まったということの罰を、われわれは受けている。(「戦中思想再考──竹内好を手がかりとして」)
*自分たちの過失を過失として明らかにして、その絶えざる吟味のうえに未来を考えるという道がほかにあると思うんです。正しい思想というものを区分して、これが正しいと固定して、それを受け継ごうという流儀は、それではそのときどきの状況から切り離されたお題目とか原則だけを、常にわれわれの暮らしの中におくということになります。状況の中で、なにか仕事をするということには、それでは足りない。それでは普通には、死んだ思想だけを賛美するということになります。(「戦中思想再考」)
*なぜ、太宰治を竹内好〔中国文学者〕は愛読したかということ、戦争中にね。それは太宰が大政翼賛会に対抗するただ一人の文学者だったからだという。太宰治の戦争中の小説、随筆、小品文というふうなものを見ても、大政翼賛会流というか、その流儀が全然出ていない。昭和17年、18年に太宰治の作品を読むと、本当に戦慄が走るような素晴らしいものなんですね。太宰治のあまりよくない作品である魯迅を書いた『惜別』というものにさえ、その毒はある。その毒なくしてなんの太宰治か。それを戦後の研究者は取り落としてしまうのではないか。それは最も戦後に伝わりにくいものではないか、ということを、竹内好は太宰治にふれて書いている。(「戦中思想再考」)
*大勢がきまったら、その大勢のきまった方向にあわせて生きる道をえらぶか。そして大勢がまたかわった時に、また元気でこれまでの大勢をひっぱたく運動にくわわることにするか。指導者の責任だけをようしゃなく、その時に問いつめることにするか。
そういう型をくりかえすことは、すでに65年生きた私としては、むなしいように感じられる。
私とちがって熱烈に「君が代」が好きで、自分ではこれをきくのが好きだが、学校で強制的にうたわせることには反対だという人があらわれると、さらにいいと思う。(「『君が代』強制に反対するいくつかの立場」)
*家と世界で考えると、自分の属している国家(世界にあるさまざまの国家)を両者の側からはさみうちして考えることになる。家はとざされているように見えながら、世界に通じる。家のことをいつも考えている女は、国家の現在の利益に心をうばわれている男よりも、世界にたいしてひらかれている。この事情は、女を、家につながれている故におくれているものと考えてきた日本の知識人には理解できない。(「タゴールの日本」)
*今となって、この〔日本国憲法の〕英文草稿をつくった人の意図はどこにあったかを推定して、その目的に近づけて現憲法を解釈しようとする努力にはあまり意味があると思えない。そのもとにあった占領軍はもういないし、その憲法をつくるあとおしをした米国政府は、今ではちがう政策を日本に期待している。
ここにある憲法を、これまでの日本の歴史、とくに戦争と敗戦の歴史にてらして吟味し、現在から未来にかけての日本人の利害を考えて解釈してゆくほうが有効だろう。もとが英文であったことを見すえて、それを日本人の伝統(とくに戦争と敗戦の経過)の一部として再定義するという努力をつづけてゆくことだ。
まじりけなしの日本語によるまざりものなしの日本文化への道は、日本人にとって、歴史のはじめからとざされていた。そういう状況に早くからふみいっていたのだが、そのことを自覚できなかった。日本の外から日本を理解する方法をつねに排除することはない。(「まざりもの」)
*私小説などというものは、思想とはかかわりがないとみなされているが、私にはそうと思われない。人が自分の底にむかってくりかえしおもりをおろして、自分の内部をはかり、動かしにくいものを見さだめる。こうして見さだめられた、反復する感情の型は、一つの抽象であり、思想である。(「ゆずれないもの」)
*自分が生きてゆくにつれて視野がひらける。そういう遠近法を捨てることはできない。しかし、そういうふうにしてひらけてくる景色には、自分にとって見えない部分がふくまれる。この自分にとって見えない部分を見るというのは、できないことだが、見えないものの気配を感じることはできる。そういうふうでありたい。
自分の思想は自分にとっての落し穴だろうが、そこからはいでる道は、自分の思想の落し穴への気配を感じようとすることから、ひらける。すくなくとも、見えやすくなる。(「あとがき」)
写真は、1939年、鶴見俊輔17歳。ハーヴァード大学入学の記念写真(『期待と回想』上巻口絵)。「私は不良少年だった」と本人が言うとおり、優等生のまま不良になってやろうという不埒な面構え。こいつと出会うと間違いなく喧嘩していたことだろう。

[まだ書き掛け]
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