■ライオンとペリカンの会・130回目の読書会:多和田葉子『エクソフォニー:母語の外へ出る旅』 |
後で調べてみると、この読書会は1994年から休まず隔月開催、当日は(多少不正確な記録に基づけば、多分)130回目だった(参考→101回目の読書会)。
「エクソフォンな作家」という言葉を初めて聞いた時のこととして、多和田氏は言う。
これまでも「移民文学」とか「クレオール文学」というような言葉はよく聞いたが、「エクソフォニー」はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般を指す。外国語で書くのは移民だけとは限らないし、彼らの言葉がクレオール語であるとは限らない。世界はもっと複雑になっている。(略)移民ともクレオールとも関係なく母語の外に出る状況は世界中に散在するのだ。
多和田氏はドイツ在住で、長年、ドイツ語、日本語で別々な作品を発表し続けている小説家・詩人。本書は、ヨーロッパに留まらず、文字通り世界中を精力的に駆け回って文学者シンポジウムに参加するなどにしつつ、「言語と越境」について書き綴ったエッセイ集だ。
レポーターの高野氏は、京都大学、ハワイ大学を卒業後放送局に勤務、現在は大学の英語教師であり詩人・作家。米国の出版社から小説及び詩集(現在2冊目を準備中、いずれも英語作品)を刊行している。
高野氏のレジュメは、著者の提起した論点をすべて質問形式に「変換」し再構成したものだった。エクソフォニー環境で作品を発表し続けてきた小説家の思索と経験について、母国に居続けながら英語作品だけを出版してきた詩人として、読書会参加者に対し問いかけ論議することを通して、自己の立場と覚悟をより深めていこうという熱意が感じられた。読書会22年の中でも特筆すべきユニークなレジュメだ。
以下、ご本人からレジュメ・データをもらい、独断で質問数を半分弱に整理、私なりに論点を括って(うまくいっていないが)並べ替えたものを掲げる。それぞれの質問は勿論多和田氏の文章をベースにしているわけだが、こうしてずらり並べられると、立て続けの訊問に遭っているようだし、にわかには答え難いものばかりだ。哲学は「問いに始まり、問いに終わる」という。人生はその問いと問いの間にどういうシュプールを描くかだ、という気がしてくる。

●各章から提起されうる論点を以下に列挙する。これらのうち、いくつかの主要なものについて、「多和田氏自身は本の中でどのように反応しているか」あるいは「読者たるあなた自身はいったいどのように反応するか」……といった点を意見交換できれば幸いである。
【外国語を学ぶ】
*母語の外に出ることはいったいどこまで「必要」か? 出たらいったいどうなるのか?
*日本社会の内部において、英語は今なお「階級差別の道具」として機能しているか?
* 「西洋的だから正しい」という発想は、(たとえば)日本の近現代文学にどれほど深く浸透していると思われるか?
*日本人は本当に「生身の西洋人を無視しながら、『西洋人』という抽象的理想像を権威として崇めて」ばかりいた国民なのだろうか? もしもそれが本当なら、そんな状態は今もなお続いているのだろうか?
*外国語学習の際、「『なまり』をなくすこと」および「ネイティブ・スピーカーのようにしゃべること」の二つは、それぞれどこまで大切なことなのだろうか?
*「国内に多様な言語が同時共存している国家」と「多言語状態を脱すべく、国民をひとつの『公用語』へと集約させる国家」とを比較した場合、いったいどちらが(どういう意味で)「よい」と思われるか?
*今後、外来語を統制する動きが日本国内で活発化してきたとしたら、それに賛成するか、それとも反対するか?
【エクソフォニー状態】
* あなたの母語を使って「外国人」が書いた文章を、あなたはいったいどのような基準で「よい/わるい」と評価するのか?
* あなたは「英語で書く」人か? もしも答えが「いいえ」だとしたら、それはなぜか? 英語で書くばかりだと「日本社会に対する責任を持てなくなるから」か? 「単に英語が下手だから」か? 「英語が下手」と「英語が上手」の境目はどこか?
*「いくら○○語が上手に話せたり書けたりしても、あなたの『魂』(または『本質』/『本当の自分』)は結局△△人ですよね」という語り口をあなたはどう思うか?
*亡命者や移民に「母語を捨て、この国の言葉を使え」という具合にエクソフォニーを義務化することは、どこまで許容されるべきことなのだろうか?
*日本が歴史的に「エクソフォニーを強いてしまった」韓国の言語事情を、一人の日本人としてどう思うか?
*日本人の中に潜む「アジア人」イメージを、一人の日本人として、あなたはどう(自己)分析するか?
【言葉と文学】
*母語の外にわざわざ出なくてもエクソフォニーを味わえるのだとしたら、そうした「一言語内の複数言語性」にはいったいどのような形が考えられうるのだろうか? そのような形に本当に将来的価値はあるのだろうか?
*人間というものを「自明な存在」ととらえながら書く行為、または、言語というものを「自然に心の中から流れ出てくるもの」と自覚しながら書く行為は、いったいどこまで「正しい」行為だと言えそうか?
*言葉遊びに富んだ実験的詩作を評価する際、「社会問題の解決実現に寄与できるか否か」といった側面をどのくらい考慮に入れるべきか?
*カタカナやアルファベットをあえて意図的に駆使する日本の文学作品を、あなたはどのように評価するか?
*「日本文学」と「世界文学」を区分けすることの意義とは何か? 「男性文学/女性文学」という区分けにどこまで意義を見出すか?
【言語の機能】
*言語とは、「コミュニケーション」のためだけのものか?
*「情報や意味の伝達」という義務から言語をなるたけ「解放」しようとする試みに、あなたはどれほどの存在意義を感じるか?
*このグローバルな時代において、あえて他言語に「翻訳不可能」な形で書かれている創作物に対し、あなたはいかほどの価値を感じるか?
*意味に還元しきれない言葉の「音楽的響き」をもっぱら必要とするようなテキストとは、いったいどのようなものまでを指すのか?
*「あえて読者に奉仕しない」作家や、「働く普通の人間の姿をあえて描かない」作家は、非難されてしかるべきだと思うか? 「自分の作品を読者がどう思おうと、まったく関係なし」と断じる作家のありようを、個人的にどう思うか?
*「アバンギャルド」と「リアリズム」のどちらに、あなたはより価値を感じるか? それはなぜか?
【言葉の壊し方】
*「境界を越えたいのではなく、境界の住人になりたい」、「個々の言語が解体し消滅するそのぎりぎり手前の状態に行き着きたい」……という多和田氏の考え方に、あなたはどのくらい共鳴するか?
*「複数の言語ひとつひとつをきちんとマスターしていく」ことよりも、「それら言語間の狭間に落ちていくこそが大切」という多和田氏の考えを、あなたはどう思うか?
*はたして言葉というものは、「壊れていくことでしか新しい命を得ることができない」代物なのだろうか? もしもそうだとしたら、どう壊れていくのがいちばん理想的なのか?
*「母語の自然さを信じているようでは、言葉と真剣に関わっていることにならないし、現代文学は成立しない」と多和田氏は語っているが、あなたもそう思うか? その根拠は?
2000年にドイツ永住権を取得、日本語のものとは別に、既に20冊以上のドイツ語作品を発表している多和田氏が、「境界を越えたいのではなく、境界の住人になりたい」と言うのは分かる気がする。移民したのでも亡命したのでもない国で暮らし、母語による作品とは別に、その国を含む広い範囲で通じる言語作品をも紡ぐ「エクソフォニー(存在)」たり続けること。
その在りように対してほとんど共鳴しつつ、「母語の外にわざわざ出なくてもエクソフォニーを味わえるのだとしたら、そうした『一言語内の複数言語性』にはいったいどのような形が考えられうるのだろうか? そのような形に本当に将来的価値はあるのだろうか?」と問い掛けざるを得ない高野氏の切実な想いもよく伝わった。
よく言われるように、「日本人」アイデンティティの最終的な根拠は「日本語」使用だろう。そして私たちは相変わらず、「日本人=日本民族」と思っている。今でも普通に、「外国人」の片言の日本語(特に仮名)をカタカナ表記した文章を見掛けるし、普通の日本人以上に日本語が達者だったり日本文化に通暁していたとしても、私たちは「彼/彼女」を──心底では、と言うべきか──「日本人」とは認めていないだろう。
そして、言語のコミュニケーション(情報や意味の伝達)機能と、それを「拘束」と捉えて言語を解体・解放しようと試みる表現の世界──。
実に刺激的な読書であり読書会であった。
(ちなみに私は、リアリズムよりシュールレアリズム、さらにSFや〔勿論大人向けの〕ファンタジーが好きだ)
[11/3最終]