■“紙の写真集” のために |
数年前、国の補助金目当てに、「バスに乗り遅れるな」とばかり出版社が挙って電子書籍出版に殺到した時期があったが、どうしたわけか、このところ電子書籍の話題をあまり聞かない。 “護送船団” は今、どこを航海しているのか。
いや、最早電子書籍はごく当たり前の読書ツールになったのかも知れないが、さて、その登場後、この国の読書人口はさらに増え、期待されたように出版界は潤っているのか──。
今更な話だが、そもそも私は “紙の本” にしか関心がない。手に取り、ページをめくって読むのが本だろう。
ところで、私の眼に触れる限りでも、写真集──ペットやアイドル系、資料的なものは除く──の出版は未だ衰えていないようだ。誰でも高画質の写真を撮ってソーシャル・メディアで発表できるし、美しい風景写真なども溢れ返っている時代に、何故、未だ紙の写真集に拘るのか。
今年は、私が出版編集に携わって40年目。カウントしたことはないが、おそらく総数で500冊程、写真集もしくは写真が主たる要素となる本に限れば、通算して50冊程の出版に関わってきたのではないだろうか。
これまでの出版経験をもとに、具体的な作品に即して、写真集について思うところを簡単にまとめてみる。
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ここに3冊の写真集から見開きページのレイアウト画像を掲げる。最初のは、時詩津男氏の『ノスタルジックな未来』(2006年)。刊行当時、時氏は九州造形短期大学写真科教授。当然ながらと言う以上に、いずれの写真もすこぶる造形的だ。
“紙の本” はそれぞれ固有の大きさ(判型)を持っている。掲載する写真が横位置でも縦位置でも対応できるよう、私は同書を正方形に近い形に設計、それが基本画面となって、各ページに写真を除いた空白部分ができる。同様に、多くの写真集には、キャプションやコメント掲載のためもあって空白部分がある。それも含めて写真配置が美しいかどうかが、編集者やデザイナーの工夫のしどころとなる。
●時詩津男写真集『ノスタルジックな未来』(海鳥社、2006年)より
サイズ:282×297ミリ、ソフトカバー、108ページ、モノクロ2色刷り

これをもし電子書籍にした場合、当然ながら、専用端末の液晶画面の中、本の形や大きさに即した縮小率で観ることになる。そもそもデジタル写真を観るだけなら、パソコンがあれば事足りる。実際にどれほど刊行されているのか調べていないが、まずはそうした点で、そもそも電子書籍の写真集は不必要だろう。
さらに、文章を読む本とは違って、写真集では見開きの構成が重要となる。つまり、見開きの中に写真1点もしくは多数を掲げるレイアウトは別として、写真集では左右ページに置く2点をセットとして考えることが多い。ただ単に写真を並べればいいというわけにいかない。
そのことですぐさま思い出すのは、一昨年2月に亡くなられた木下陽一氏のこと。私は写真集を2冊半(3冊目は制作途中で私の退社により担当者交代)、編集担当させていただいた。
一枚の写真における完璧かつ美的な構図を身上とする木下氏は、ある頃から、写真集作りを前提に、いつも2点の組み合わせを意識しつつ撮影活動をされていた。これはすこぶる合理的な考え方であり、よって、木下氏はいつも最小限の点数しかポジ入稿されなかった。木下氏は、ポジ・フィルムやプリント原稿をもとに写真集を作る最後の世代であったろう。
作品そのものだけでなく制作の流れにおいても木下氏と対照的だったのが、先に触れた時氏の『ノスタルジックな未来』。『EVIDENCE(エビデンス)』(2002年)に続く同書では、写真のセレクトから編集の全般を任された私は、「現実の “非現実性” 」を捉えようとする時氏の写真に即し、見開き写真2点の対置によって、如何に一つの寓意やイメージを伝えることができるかを編集の主眼とした。
編集過程で時氏は、「新しい作品が撮れた」と次々に写真を持ってこられる。そこからまたセレクト自体や組み合わせの見直しを行い、それを何度か繰り返した結果、掲載写真の確定までに1年かかったが、都合1000点の内から91点を選び出して編む作業は私にとって重要な経験となった。
●川上信也『フクオカ・ロード・ピクチャーズ』(花乱社、2011年)より
サイズ:220×150ミリ、ソフトカバー、160ページ、4色刷り

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写真(画像データ)を紙に印刷するというシステムは、それぞれの発色原理からして異なり、制約も多い。けれどもなお写真に携わる人々が写真集出版を目指すのは、写真という “複製芸術” が、紙に印刷されて綴じられることで、一つの創作物として新たな相貌をもって立ち現れるからだろう。
そしてその時、写真集を問題にする場合の肝心の課題が見えてくる。それはやはり、一冊のテーマだ。何を撮るのか、どう見せるのか──明確なコンセプトが必要となる。多くの写真家が日夜、腐心しているはずだ。美しい写真を集めてタイトルに “絶景” や “遺産” を付せば一冊の写真集として成立する、というものではない。
電子書籍を目の敵にする話を書いてきた。文字が主体の本においては、たとえ液晶画面であっても、最終的には著者の伝えたいことを疎外しないだろう。だが写真集は、(バーチャルではなく)複製印刷された現物の “本 ”としての大きさや意匠、手触りを必要とするのだ。むしろ、どこまでもそうした三次元的な存在であるほかないことが写真集の魅力なのであり、電子書籍にとってその在りようは、ずっと夢見続けるものでしかないだろう。
●榊晃弘写真集『中国の古橋』(花乱社、2016年)より
サイズ:290×225ミリ、ハードカバー、160ページ、4色刷り

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以上は、このほど『ARTing』第11号(ARTing福岡編、花書院刊、2016年2月)に寄稿したもの。同誌の編集をされている武田芳明氏(新天町・ギャラリー風のご主人)より、「福岡写真史への序章」という特集に写真集のことを書いてくれ、との依頼があった(参考→「現在進行形としての〈写真集〉展」案内)。
【追記】3/16
上記「現在進行形としての〈写真集〉展」会場で、川上信也さんが出展分作品に添えた文章がある。写真家の立場からの素敵な文章だ。
手触りが伝えるもの
写真集が完成すると、毎度の儀式のように眺めのいい部屋の窓際に本を置き、とにかく何度も何度もその手触りを楽しむ。本の厚さを確かめたり、逆さまにして眺めてみたり、ページを開いたり閉じたり、なんとも気持ちのいい時間が過ぎてゆく。そして折り目が付いてきたあたりで写真集が完成したという喜びが心に植え付けられ、この手触りこそが紙の写真集の魅力だということが実感として伝わってくる。
これまで花乱社の別府大悟氏の編集で5冊の写真集を世に送り出してきたけれど、1冊の本を完成させるまでにはテーマの構成はもちろんのこと、順番、配置、紙の種類、そして字体、帯の形、色にいたるまで、様々なことを日々考えながら進めてゆく。表紙にいたってはデザイナーさんに多くのわがままな要求をお伝えし、いくつも候補案を見せていただきながら決定してゆく。
こういった過程を経て完成した写真集というものは、単に一枚一枚の写真の並びだけではなく、本そのものが一つの物語作品となっている。これを伝えるには質感がものすごく大きな役割を果たし、その感覚はやがて部屋の片隅に置いてあるだけで何らかのメッセージを発するものへと成長してゆく。これは電子書籍では決して味わうことのできない、紙のやさしく温かい手触りが伝える大切な文化だろうと思う。