■『田舎日記/一写一心』(文:光畑浩治/写真:木村尚典)について |
1月刊行の本書は、「田舎日記」シリーズの二冊目(一冊目は『田舎日記・一文一筆』)。
「かつて京都(みやこ)とされた地に住まい、地域に埋もれ忘れられている歴史や人、世相について、様々な話題をめぐりエッセイを書き綴ってきた光畑浩治氏。一方、長年地域の郵便局に勤務、局長時代に脳梗塞で倒れたものの、リハビリを兼ねた写真撮影にて各地に自然風景・祭り・花などを尋ね、遠くアラスカへのオーロラ撮影行まで果たした木村尚典氏。エッセイと写真を見開き交替で併録した、味わい深いコラボレーション」というのがその内容。人間の煩悩の数と合わせ、エッセイ108話と写真108点を一冊に纏めた。
光畑さんの文章を通して、私は「風の電話」(つい先日もNHK番組が放送された)や反戦川柳の鶴彬(つる・あきら)のことを知った。光畑さんはここ数年、感じ、考えたことや調べたことをもとに、毎日の如く1000文字設定の「田舎日記」を書き綴り、一部発表されている。権力やマスコミによる情報操作・統制が加速度化している昨今、こうした営為──情報の整理と所感の表明──が如何に大切なことか。
また、木村さんについては、「リハビリを兼ねて写真撮影を始めた」と伺っていたものの、実は現実感覚に基づいて認識していなかったことを、ある時、木村さんのカメラを自分で持ってみて痛感した。それは10キロ以上の重量があった。これを操作するのは両手が自由な人でも大変だと思ったが、交換レンズや三脚他まで担いで取材地まで赴かれるわけだ。その情熱には感服するするしかない。
以下、やや長くなるが、本書からエッセイ4本と写真12点を紹介する。まずは、本書成立の経緯そのものに触れた光畑さんの文章から。
●「田舎日記」より
一写一心
福岡県行橋市西宮市に住む木村尚典さん(75歳)が、郷土で活動する写真家の仲間入りをしたのは10年前になる。彼は、太平洋戦争が始まる前、昭和15(1940)年1月25日、犀川町上伊良原(現みやこ町)に生まれた。昭和34年に郵便局に入局、北九州エリアの各郵便局の業務に携わり、平成元(1989)年、みやこ町木井馬場の城井郵便局に赴任した。14年間、局長を務め終えて退職した。
木村さんは、地域の郵便局として親しまれる工夫を試み、局舎の狭い空間を利用し、周辺に住む人々の書や絵、陶芸など様々な作品発表ができる「小美術館」を提供して喜ばれた。自らも書が好きで師範資格を取得、退職後は書三昧で暮らそう、との思いもあったのだが、退職4年前、脳梗塞で倒れ、一時、休職もした。右手も利かなくなり、書の揮毫ができなくなった。その頃、彼は、局舎近くの木井神社神官で漢学者だった慶応元(1865)年7月7日生まれの書家・吉原古城の研究を進め、遺作の書などをカメラに収めていた。そして『「吉原古城」先生を偲ぶ』(平成16年刊)を纏め、地域の人々に配り、書家・吉原古城生誕祭を「七夕祭」として実施することができた。利かぬ身体を鞭打って地域の人々とともに行動した成果だ。この祭りは続いている。
彼は、資料をカメラで追っていて、生き生きした写真を撮ることが脳の活性化を促すことに気づいた。写真仲間とともに北海道から沖縄まで各地を歩き始めた。不自由な身体で風景や人物、祭りなど、あらゆるものにレンズを向け、露出を変えながら三連写で撮った。冬の朝の漁村風景などは、暗い内から海岸に赴きカメラをセットしてシャッター・チャンスを待つ。鳥や動物を撮る瞬間、緊張が続く。リハビリを兼ねた撮影は、歩き回って場所を探す。身体を酷使するのが良かった。景色撮りは、若い頃の登山経験が役に立った。公募展では、県展と九州二科展に各5回入選を重ねるなど、10年経ってようやく、観てもらえる百余点の作品ができた。身体の快復も続く。
彼は、座右の銘にしているサミュエル・ウルマンの詩の一節「情熱を失うときに 精神はしぼむ」が好きだという。木村さんは、2015年の誕生日、長年の夢だった極寒の地アラスカでオーロラ撮影に挑んだ。
彼の75歳の作品は、写真家としての区切りになる秋刊行の写真集「一写一心」(注:本書に収録)に納まる。利かない手とともに歩んだ道程だ。 (2015・1)
風の電話
ふるさと探訪のテレビ番組で、庭に白い電話ボックスのある映像が流れた。「風の電話」だという。白いボックスの中には、電話線に繋がってないダイヤル式黒電話が一台、そばに思いを綴るノートが「風の電話は心で話します」と記し、置かれている。
岩手県大槌町の海を望む高台を終の棲家に、とガーデンデザイナーの佐々木格(いたる)さん(68歳)が、2010年の冬、自宅の庭に不要になった電話ボックスを譲り受けて設置。春、暖かくなってから周囲に花を植えて庭を完成させようと思っていた。そこへ東日本大震災が起きた。目の前で多くの命が奪われていった。
佐々木さんの家は、鯨山と呼ばれる小高い丘の一角。そこは井上ひさしの『ひょっこりひょうたん島』のモデル蓬莱島が見え、後、小説『吉里吉里人』のモデルとしてブームになった吉里吉里地区もある。そんなのどかな里の風景だった。
しかし、あの日、津波が海岸を襲い、松林が倒れた、波が道路を越え、家に押し寄せ、ホテルの3階を突き破った。消防自動車が押し流され、人が流された。
佐々木さん夫妻は、未曽有の悲惨情景の一部始終を、なすすべもなく、ただ、自宅から見るしかなかった。
高台の庭に被害はなかったが、津波によって友の家も学校も図書館も商店も、何もかもが流されてしまった。突然、あまりにも多くの命が失われた。佐々木さんは震災後、混乱の中で「遺族と亡くなった人の思いをつなげれば……」と、白いボックスの周辺に花を植栽し、黒電話を置いた。人は、独りになって想いを伝えたい時がある。そんな場所になればと、「風の電話」と名づけた。人づてに電話の噂が広がり、人が訪ねて来るようになった。一人、また一人と、次々、ボックスに入って受話器を取った。静かに話す人、泣く人、外で立ち尽くす人など、想いを伝える姿は様々だ。
──静かに目を閉じ 耳を澄ましてください 風の音が または浪の音が あるいは小鳥のさえずりが聞こえたなら あなたの想いを伝えて下さい 風の電話は心で話します
人が人を癒すかもしれない、時も人を癒すかもしれない、しかし場所で癒される人もいる。終の棲家のメモリアルガーデン、そばに「森の図書館」もできた。黒電話で想いを伝えると、風が、逢いたい人に声を運んでくれるような気がする。 (2014・5・10)
憲法九条にノーベル平和賞を
とんでもない発想ができる人がいるものだ、と思ったが、よく考えてみると、普通の主婦で子を思う親の真摯な思いがあれば、「憲法九条」を持ち平和を希求する「日本国民」は「ノーベル平和賞」に相応しいと思う、は、当たり前だろう。そう、人はそんなに多くのことを望んではいない、と思う。
ただ子を、人を想い、平和で安心、安全な世が続くことを願うだけだ。だが、今、世界各地では人が人を殺す、悲惨な現実がある。どんな状況下でも、人は生きること、生きてあることを、望む。
近代戦争での日本人戦死者を調べてみると、日清戦争(1894〜95)約1万4000人、日露戦争(1904〜05)約8万9000人、日中戦争(1937〜45)約45万人、太平洋戦争(1941〜45)約310万人などの犠牲者が出ている。
戦争で人の命をなくしてはならない、と昭和21年11月3日、日本国憲法が公布され、第九条には「戦争の放棄」が謳われた。
一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
神奈川県座間市の主婦・鷹巣直美さん(37歳)が思いつきでインターネットに「憲法九条にノーベル平和賞を」と呼びかけると、共感の輪が拡がった。
ノルウェーのノーベル委員会へ2014年2月1日の推薦締め切りまでに学者ら43名が「九条を保持する日本国民」の形で推薦、約2万5000人の署名も添えて申請。すると平和賞の候補として受理された。
思えば、昭和49(1974)年に「非核三原則制定」が評価され、佐藤栄作元首相が日本人初のノーベル平和賞を受賞してはいるが……。
今年10月の発表まで大きな夢が膨らんだ。それにしても、ごく平凡な生活の中で一主婦の「思いつき」が、たくさんの人々の共感を得て、とてつもない大きな夢を国民に抱かせる。改憲論者にとっては、えっ、こんな手があったのか、と、痛い「妙手」に掴まった。悔しさしきりだろう。人間の発想って、無限のものだねぇ。 (2014・7・10)
反戦川柳の鶴彬
近年、川柳ブームだという。川柳は、「木枯や跡で芽を吹け川柳」の辞世句を残す江戸時代の前句附点者(まえくづけてんじゃ。選者)の柄井(からい)川柳(1718〜90)に因るといわれる。俳諧連歌が派生した近代文芸で、発句の俳句に対し付け句の規則が独立したものという。句は、うがち・おかしみ・かるみを特徴とした人情の機微など多かったが、現在は口語が主体で、破調、自由律、駄洒落、とにかく約束や規律に囚われない自由な言葉遊びに変貌してきているようだ。今、サラリーマンやシルバー川柳など盛んだ。
昭和初期、反戦を貫いた川柳作家に鶴彬(あきら、1909〜38)がいた。彼は現在の石川県かほく市生まれで、本名は喜多一二(きたかつじ)。幼い頃から川柳の指導を受け、16歳で「暴風と海の恋を見ましたか」でデビューしたが、18歳、大阪で町工場の労働者になりプロレタリア思想の影響を受けた。十代で「燐寸の棒の燃焼にも似た生命」、「打たれてから打つ心を考へる」、「さやのなき刃いつしか人を切る」、「万歳と挙げた手を大陸に置いてきた」、「米つくる人人、粟、ひえ食べて」などを作った。そして21歳、反戦活動で治安維持法違反に問われ逮捕、収監、拷問を受け、「兵隊をつれて坊主が牢へ来る」などを詠み、懲役1年8カ月に処せられた。その後も特高警察の監視と迫害が続いた。そんな時、鶴彬を救ったのが川柳だったのだが、反戦の句は止むことはなかった。
「ふるさとは病ひと一しょに帰るとこ」、「フジヤマとサクラの国の失業者」、「みな肺で死ぬる女工の募集札」、「ざん壕で読む妹を売る手紙」、「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」、「正直に働く蟻を食うけもの」、「稼ぎ手を殺してならぬ千人針」、「屍のゐないニュース映画で勇ましい」、「手と足をもいだ丸太にしてかえし」など戦争反対を貫いた。
昭和12(1937)年、鶴の反戦句を載せた『川柳人』が発禁。最後の作品「胎内の動きを知るころ骨がつき」で、鶴は再び治安維持法違反で逮捕。東京の野方署に留置され、拷問と長期の勾留から衰弱して赤痢に罹患、奥多摩病院に移送され、昭和13年9月14日、ベッドに手錠で括られたまま死亡した。享年29。
鶴の生誕地に「可憐な母は私を産みました」、「枯れ芝よ団結をして春を待つ」などの碑があり、大阪の監獄跡に「暁を抱いて闇にゐる蕾」が建つ。こんな時を経て、今の川柳がある。唯、彼の「この大地この人の群れこの太陽」のおおらかな句には救われる。 (2015・3)
●「一写一心」より
オーロラ 2015.1.26
アラスカのフェアバンクス、氷点下40度の世界。エスキモー服に着替えて、夜中の1時過ぎに撮影した。

月夜の砂紋 2014.10.8
熊本県宇土市・御輿来(おこしき)の浜。ここは特に夕日の砂紋がきれいな所だ。大潮の月夜の晩に撮影。

峠の光景 2012.4.6
福岡県みやこ町勝山の桜の名所、仲哀トンネルの七曲峠で、日没頃,車のライトを追った。

一斉飛び込み 2014.7.25
熊本県菊池渓谷近くの橋の上で、学生たちが飛び込む順番をめぐって騒いでいた。一斉飛び込みと決まった。

ご開帳 2011.1.1
豊後高田市の国宝・富貴寺(ふきじ)は,年に2、3回(正月、お盆など)ご開帳される。

挙母(ころも)祭り 2010.10.17
愛知県豊田市で行われるこの祭りは、山車(だし)に紙吹雪が多いことで有名。尾張の大きな山車の祭り。

鬼夜(おによ) 2013.1.7
福岡県久留米市・大善寺の火祭り。「日本三大火祭り」の一つといわれている。

奉納花火 2008.8.14
広島県宮島の水上花火。海の中に入って撮影。最後の一発が特に大きかった。

母子の絆 2012.2.18
大分市の高崎山で、猿の母子の小集団を見つけた。寒さから子猿を守るため、母猿は懸命。

ヤマフジ 2010.5.17
山口市二保のヤマフジ。ここの藤は房が長く、小川の横に咲いているので、自然で格好いい。

深山に咲く 2014.4.25
宮崎県諸塚村の諸塚山に咲いた曙ツツジ。ツツジの仲間では一番大きく、ピンク色の上品な美しさだ。

霧のサルスベリ 2011.8.8
福岡県糸島市の風景。田の端に一本だけサルスベリの木が植えてあった。樹勢がとても良く、霧の中で花もよく咲いていた。

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なお、光畑さんは、この「田舎日記」コラボレーション・シリーズを、さらに違うジャンルの人と協同して、全部で10冊の刊行を目指されている。例えば、短歌、俳句、絵画……。私にとっては年上の友人、そして人生の先達のお一人である。どこまでも付いて行きたい。
「田舎」は単なる “消滅(が予測される)集落” ではない。暮らしが立ちゆかない、或いは地方に “人が居ない” 国で、憲法を改悪して基本的人権と三権分立をなし崩しにし、米国と産軍複合システム/グローバル企業に操られ、国際テロの火種をばらまき・かつ恐怖を利用しつつ、新たな「皇国」を立ち上げたとして──一体それからどうするのか。
→花乱社HP