■70年経ての「謝罪告白」──西南学院の平和宣言 |
「写経」(ここではやっぱり変か)して銘記するつもりで、勝手ながら書き写させていただく(1行空きを作り、数字表記を改めた)。
西南学院創立百周年に当たっての平和宣言
─西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて─
西南学院は、創立百周年を迎えるに当たって次の百年を展望し、「西南よ、キリストに忠実なれ」という創立者C・K・ドージャーの言葉を改めて心に刻みます。また、それゆえに、キリスト教学校としてのこれまでの学院の歩みを振り返り、過去に対する責任を強く覚えずにはいられません。西南学院はイエス・キリストの福音に基づいて平和と人権を大切にする学校であるにもかかわらず、先のアジア・太平洋戦争ではこれに加担し、韓国(朝鮮)、中国などの諸外国の人々をはじめ多くの人々に多大な苦しみを与えてしまいました。また、その責任については、戦後の歩みの中においても公に表明してきませんでした。今、私たちは建学の精神を守ることができなかったことを神と隣人の前に告白し、キリストに忠実に歩んでこなかったことを心から謝罪し、悔い改めます。
イエス・キリストは、「あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・29〜31)と語り、さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)と言われました。また、「主なる神」は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの奴隷の地から導き出した神である」(出エジプト20・2)と語ります。聖書が語る神は、あらゆる抑圧から私たちを解放し、この世界に存在する特定の価値に、それが、キリスト教会であれ、家族、民族、宗教、国、富であれ、支配されることから解き放つ神です。また、キリストは、その十字架を通して、「二つのものを一つにし、(中略)敵意という隔ての壁を取り壊し」、「わたしたちの平和」となられました(エフェソ2・14〜22)。そして、彼に従う者たちに、「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5・9)と言われました。敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての普遍的価値であると、私たちは信じます。
西南学院は、このように語る聖書の教えに忠実に従い歩む学校であるべきでした。しかし、先の戦時下を振り返ると、当時の軍国主義体制下、天皇皇后の「御真影(ごしんえい)」の「下賜(かし/下げ渡し)」を願い出、その後、募金活動を行って「御真影」と教育勅語を納めた「奉安殿」を建設し、式典においては、宮城遥拝(皇居に向かって最敬礼すること)、君が代斉唱、教育勅語の「奉読」などを導入しました。また、配属将校の圧力の下で、体育教育を「軍事教練」の場とし、学院の名で学生を出陣させ、彼らのいのちを死に至らしめ、他国の人々を殺すことを是認したのでした。さらに、同じキャンパスに生活していた宣教たちが敵国人として帰米を余儀なくされた時にも、その方々の苦悩・悲しみを十分に共有することができませんでした。当時の状況下にあってキリストに忠実であり続けることが非常に困難であったことは容易に想像できますが、そのことをもって過去に対する責任を免れることはできないのです。
戦時下の問題ばかりではありません。戦後の歩みの中にあってもこのような罪責を告白し、それを公に問うことをしませんでした。戦争による自国の被害者の苦しみに共感できなかっただけでなく、天皇の名による侵略戦争によって傷つき、殺された人々への「加害責任」を心に刻み、民族や国境を越えて、戦争による負傷者や遺族たちの怒り、苦しみ、悲しみを受け止めることも十分にできていませんでした。
私たちは、創立百周年のこの時に、そのような過去と将来に想いを馳せ、自国本位の価値観を絶対視し、武力・暴力の行使によって人々の尊厳を抑圧するという過ちを二度と繰り返すことのないよう、西南学院に学ぶ者たちや教職員が目をさまして行動し、国際社会の真の一員となり、「平和を実現する人々」の祝福の中に生きる者となるよう、今その志への決意をここに表明します。
2016年4月1日 学校法人 西南学院
率直・明快な文章だ。「学内での意見聴取や勉強会、起草委員会、作業部会、その他様々な討議を経て」出来上がったとのことだが、きっと議論百出、これだけ簡潔に収めてしまうのは大変だったことだろう。ただし、文章というのは “みんなで作文する” ものではない。「私たちは」という主語の背景に、明確な信念と意志を持った一人の原案起草者の存在を感じさせるところが、単なる集団的スローガンとなることから救っているように思う。
そこにこそ、「神─個」(神の前の個人)という──「自国本位の価値観」に囚われがちな日本人には理解の難しい──キリスト教信仰の大前提があるのだろう。「聖書が語る神は、あらゆる抑圧から私たちを解放し、この世界に存在する特定の価値に、それが、キリスト教会であれ、家族、民族、宗教、国、富であれ、支配されることから解き放つ神です」という如何にもプロテスタントらしい件(くだり)が力強い。
70年を経ての戦争責任、そして戦後責任の「謝罪告白」。最早遅い、ということはないのではないか。「普遍的価値」とは、迫害や不寛容や怠惰や絶望と対峙しつづけることでしか “実現” されないものだろうから。
この「宣言」が、誰に対し、何に向けたものかは明白。私は全くの無信仰者だが、清々しいメッセージを受け取った気がする。こうした「宣言」を公表するだけでも大きな勇気を必要とする時代になってきていることを、改めて思う。
[4/10最終]
*ちなみに、小冊子だが、小社にて『西南学院の創立者 C.K.ドージャーの生涯』(改訂版、西南学院刊、花乱社制作)を発売している。
