■九重町「叶館」と藤井綏子さんのこと ③──『古今集』から |
藤井さんが生前最後に刊行したのは『九重・山麓だより 山庭の四季 4』(海鳥社、1992年)。これには、娘・衞子さんとの画文集となっている他の4冊と少し異なり、「山べの詞華:『古今集』春」・「山べの詞華:『古今集』秋」の二組のエッセイを収録している。『古今集』から取り出した一首それぞれに、藤井さんが短文を添えたもの。

夏と秋と行きかふそらのかよひぢはかたへすずしき風やふくらん みつね
この歌は題詞を持つ。「みな月のつごもりの日によめる」と。みな月とは、陰暦6月のことで、往古はそのころが真夏だったという。歌はその6月の末日30日に詠まれた。次の日は7月1日で、この日から秋になると当時の人々は考えていた。そんなことを念頭において読むと、この歌はみな月のつごもりという日の特殊をとりあげた頓智めく歌に思える。事実、わたしも若いころは、この歌を理屈の勝ったあまり好きでない歌に思ってきた。が、高原に住んで20年になろうとする今では、よほど味わいも変わってきた。
このごろ──夏はすでに終わろうとし、とは言え山遊びの人の姿はまだ多い山麓に立っていると、風が吹き抜けて行く──その風が、おやと思うほどさわやかなのに気付くことがある。山裾の牧場の緑はまだ濃く、頂上部の原生林の樹々の梢の重なりは依然盛大で、高原の空を区切る杉林の整然としたギザギザの梢にも全く衰えの色はないのに、風だけが、突然涼しいある日──わたしは知る、それが片へ涼しき風であるのを。そしてたしかに空に、夏と秋の行き交う通い道があるのを、平安の昔、京都でその通い道を見た人が、俄かにひたひたと懐かしい。
●としにひとたび
契りけん心ぞつらき織女(たなばた)のとしにひとたびあふはあふかは 藤原おきかぜ
織女と牽牛が最も接する晩夏の夜、この山中の家では二星は庭中央の欅の枝はずれに、高く見える。が、見ていても、二つの星がこの夜特に近付いているようにも見えない。前の夜も、その前の夜も、夕闇が濃くなるころには、欅の枝の揺れにさしかかるそのあたりに、天の川を挟んで光り合っていたのだから。とはいえ、実際に、両星が年に一度最も接近する日があることは、現代の天文学でも認められることらしい。で、昔の人の、そんなちょっと見にはわからないことをちゃんと見て知っていた科学性(?)に驚嘆をおぼえたりする。もっとも昔の人は、これら星々の観察をもって、農事や政事、軍事や神事など、生活万般を律していたらしいから、観察が真剣であったのは当たり前ではあろうけれど。が、平安びとともなると、二星が年に一度最も近付くという状況は、想像を遊ばせるに恰好の種だったらしく、たくさんの七夕の歌が詠まれている。中でこのおきかぜの歌は、「年に一度会うなんて会ううちにはいるかよ!」と、織女を恨む牽牛の歌のようになっているのが、おかしい。乱暴に、口語的に言って、風情も顧みていないようなところが、男性っぽい感じ。
●と思ふは山の
ひぐらしのなきつるなべに日はくれぬと思ふは山のかげにぞありける よみ人しらず
この人は、山に住んでいる友を訪ねた。話し込んで、時がたつのも忘れていた。が、都ではあまり聞かない蝉のような虫のようなものの声がした。聞くとそれは「ひぐらし」だと言う。夏から秋へかけて涼しい朝夕に鳴くという。虫にしては仰々しく、蝉にしては寂しい声だ。そしてこれが鳴きだすとともに、戸外もひんやりと陰ってきた。暮れ始めたようだ。つい長居をした、もう辞さねば、都へ帰りつけぬ……。
そんな客のそぶりを察すると、主人は笑った。「まだ暮れではありません。ごらんなさい。陰ったのは山の影なのですよ」。見るとたしかにそうらしい。こちらの庭はすっかり陰って薄暗いほどなのに、谷向こうの山や野には、まだたっぷり日が当たっている。それはまだ十分盛りの日ざしの色だ。主人が言う。「この家はどうも西にあたる裏手に山があるので、早く陰っていけません」。客は坐りなおし、もうしばらく居ることにした。が、向こうの山肌の暖かそうに日を浴びたのを見ていると、一度涌いた帰心はやすやすと消えそうにもない。この家の裏にある山の大きさが感じられた。
●思ひたわれむ
ももくさの花のひもとく秋ののに思ひたはれむ人なとがめそ よみ人しらず
秋の野を分け入って行く。風が乾いた草にさやさや、さやさやとたえず音を立てさせている。その中をかそけく続く踏み付け道を、どこまでも分け入って行けば、目の高さにさっきは黄色のあきのきりんそうが咲いていたが、次はすすきの大株がギラギラ穂を光らせて道を塞ぎかける。次にはりんどうの揺れる横で魑魅が泣いていた。秋の野を分け入って行く。どこからか琴の音がする。天から降る音だった。シンと草々が聴き入っており、足音も吸い込まれる。道は絶えたのか。あるのは空と、すでに下葉枯れかけた草々、その草茎ふりあげて浮く花、花、花。よく見れば、天で蠢いて琴を弾いているのは魍魎だった。それでもこのふしぎな陶酔。どこへ吸い込まれて行くこの身か。どこであろうとかまわぬ夢うつつ。行く、そのことの純粋な喜び。人もまた、草や、花や、風と、どう異なりもしない。すでに魂は、あれら魔者に食い尽くされた。大気の澄みが、草ごしに四方の山を近々と見せ、この惨劇を成就させた。人は何も言ってくれるな。永遠に行方知れずとなって朽ちるに悔いはない。秋の野を分け入って行く。
*
秋の部から4本を写した。藤井綏子さんという人の感性がおおよそ伝わるのではないだろうか。『古今集』から22首を取り上げたモノローグ。このシリーズをもっと書き続けてほしかった。
人もまた、草や、花や、風と、どう異なりもしない──ということを深く得心するためだけにでも、どれほどの時間を必要とするだろうか。「秋ののに思ひたはれむ人」とは、即ち藤井さん自身だったのだろう。どこまでも、秋の野を分け入って行く。生きているのはほとんど狂気か。ならば、永遠に行方知れずとなって朽ちようと思い決めた人を、私とて今更邪魔したくはないのだが。
[5/9最終]
→九重町「叶館」と藤井綏子さんのこと ①──秋の美しさと恐ろしさと
→九重町「叶館」と藤井綏子さんのこと ②──約束の地/山の声