■葉室麟の美学 |
今日の「雨、被爆地の怒り冷めず」という見出しを付けられた文章は、こう纏められている。
オバマ大統領のスピーチは、
71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。
と始まる。美しいフレーズだが、他人事の美しさだとも思える。広島を訪れた最初のアメリカ大統領の言葉が詩的なのは、ある意味、残酷なことだ。
われわれは、原爆が落とされたあの日から、この国の美しさを見失ってしまったのではないかと思うからだ。しかし、本当に原爆において美しさを失ったのは、被爆国ではなく、投下した国のほうであるに違いない。
妻と3人の子を原爆で亡くした長崎の俳人松尾あつゆき(1904〜83)が遺した、次のような句に思いをはせた。
原爆をおとした天へ頭を垂れて祈る人たち
ここで葉室は、「美しさ」をどういうこととして言おうとしているのか。
われわれは、原爆が落とされたあの日から、この国の美しさを見失ってしまったのではないか。ここまでは──日本国民がこの国の美しさを見失ってしまったのは、原爆投下以降ではなく、もっと前の時点ではないか、とは思うものの──まだいいだろう。だが、
本当に原爆において美しさを失ったのは、被爆国ではなく、投下した国のほうであるに違いない。
という「美学」は、どういうことを根拠にしたら、言挙げできるのか。
私は勿論、米国の肩を持とうというのではない。むしろこれまで、現安倍政権を「対米追従ポチ政権」と憚らずに言ってきたし、鶴見俊輔が「占領下に占領批判をしなかった右翼思想というものは、信頼しません」と言ったことに全く同感だ(参考→鶴見俊輔の文章)。日本人は、自国の犯した過ちをはっきりと認めた上で、原爆投下について米国に対しきちんとその責を問うべきだ、と考えてきた。
本当に原爆において美しさを失ったのは、被爆国ではなく、投下した国のほうだ──そんなナイーヴな言い方を持ち出すために、そもそも「美しさ」は我々の問題としてあるだろうか? 「被爆国」という一点に基準を置いた時には、自国・他国の様々な人々を総括りして構わない、というのが彼の文学だろうか。
「美」を語るのは、やはり恐いことだ。
[書き掛け]