■夕立の国、そして「この体験は在日の人々のみならず」 |
昨日、その夕立ちの後の夕焼け。いつもの事務所ビルから。

7日。
笹丘ダイエーも、完璧にイオンになった。そうでなくても、カタカナ新語に嫌悪が走ることがあるのに……。

今日の西ノ堤池。


*
今日の「朝日新聞」読書面、小説家・星野智幸の『ジニのパズル』(崔実著、講談社)評に惹かれた。

無力な人々の背を押す強靭な力
勇気あるデビュー作である。「苦しい時は私の背中を見なさい」とチームメイトに言った、女子サカーの澤穂希のような存在の小説だ。
在日3世の少女ジニは、自分の居場所を求めて、小学校は日本の学校、中学からは朝鮮学校、そして高校はアメリカに行く。その度に衝突と反抗を繰り返すのだが、それはジニの性格の問題ではない。さまざまな線引きによってジニを排除する環境が、ジニの身の置き所を奪っていくのだ。
存在の根幹に関わる事件は、北朝鮮がテポドンを発射した翌日に起きる。チマ・チョゴリ姿で登校するジニは、「昨日までは、ここは私にとって危険な場所ではなかったはず。それが突然、こんなにも危険を感じる場所になるなんて。道の先にある曲がり角が酷く恐ろしい」と、漠然と自分に向けられる敵意に怯える。そして本当に暴力に遭う。
読んでいるだけで不安と怒りに駆られるこのくだりは、ヘイトスピーチを向けられる在日の人々のみならず、今や様々なマイノリティが共有する体験だろう。無力な者が殺害の恐怖に震えるのが、今の日本社会だ。
この恐怖に打ち克(か)とうとして、ジニは原因を北朝鮮の支配者の肖像に求め、破壊的行動に出る。この行動は過っているいると同時に、共同体内で目をそらしてきた問題を直視するという点で正しさをも含んでいる。タブーを恐れず、その矛盾した両義性を表せたのは、文学だからこそ。文学は政治を嫌うが、むしろ政治に振り回されないために、政治を直視する必要がある。
この小説はジニの手記という形をとる。つまり、ジニは初めて、書く行為に自分の場所を発見したのだ。表現という、自分の存在が留保なく肯定される場を。
この作品には、排除されて自分を精神的に殺すしかなくなるまでに追い詰められた人に、自分に素直に書いてよいのだ、と表現を促す強靭な力がある。ぜひ若い人に読んでほしい。
私は、星野氏の作品を一冊も読んだことがない。だが、このところ時々、「朝日」書評欄での文章を読んできて、この人は表現者として信頼できる、と思ってきた。
小さきもの、弱きものに向ける視線がとても温かくて、かつそれらは戦って守るしかない、という覚悟が感じられる。
正直私は、これからこの『ジニのパズル』という小説を読むかどうか分からない。だが、この800字足らずの文章が、今、どれほどの憂慮のもとに書かれ、どれほどの射程を目指しているかは、はっきりと分かる。勿論、書評の約束事を踏まえつつ。
言うまでもなく、事は最早、文学だけの問題ではない。「文学は政治を嫌うが、むしろ政治に振り回されないために、政治を直視する必要がある」という文章の「文学」を、例えば(あえて文春に倣って→ 「人生に文学を。」広告の非文学的キャッチ・コピー)「アニメ」に置き換えてみればどうだろう。
「無力な者が殺害の恐怖に震えるのが、今の日本社会だ」
[書き掛け]