■雲と『眉雨』──週替わりの夕暮れ[8/27-28] |
高校同期会の来年の予定を決める会合が開かれた。会場となった貸会議室ビルのベランダから。
流石、我が故郷──夕暮れ空も “顔が濃く” て大胆だ。 今からの討議の波乱を予感させる雲。望むところ、「吹けよ風、呼べよ嵐」。
●8月28日
細い雨に遭遇する度、ずっと「微雨」という言葉(文字)を思い浮かべてきた。古井由吉の作品集のタイトルだ。
今日、その「微雨」のことを思い出したのは、本格的に降られた時間帯を過ぎた、夕刻のこと。
身支度を整えてウォーキングへ。だが、室内から見た時と違い、外ではかなり細かい雨が振っている。止むかも知れない、止まぬかも知れない雲行き。えい、ままよ。
西ノ堤池周囲の植え込みは、蝉ではなく、既に秋の虫の世界だと思われた。中心はコオロギか。
けれど、雨脚が弱まると、南側、周回道に隣接する大邸宅の庭辺りでは、未だツクツクボウシが勝(まさ)っていることが明らかとなる。
微雨を押して、予定の周回数をこなす。
夜、古井由吉作品を捜す。あるのはあったが、それには『眉雨』(福武書店、1986年)と。
はて、眉雨……古井の造語か。「眉雨」がどのように語られているか……以下、巻頭に置かれた同名短編から。
雲の中には目がある。目が、見おろしている。小児の頃に、雨雲の寄せる暮れ方、膝に疼きを溜めて庭から仰いだ。夢の中のことだったかもしれない。何者か、雲のうねりに、うつ伏せに乗っている。身は雲につつまれて幾塊りにもわたり、雲と沸き返り地へ傾き傾きかあり、目は流れない。いや、むしろ眉だ。目はひたすら内へ澄んで、眉にほのかな、表情がある。何事か、忌まわしい行為を待っている。憎みながら促している。女人の眉だ。そのさらにおもむろな翳りのすすみにつれて、太い雲が苦しんで、襞の奥から熱いものを滲ませる。そのうちに天頂は紫に飽和して、風に吹かれる草の穂先も、見あげる者の手の甲も夕闇の中で照り、顔は白く、また沈黙があり、地の遠く、薄明のまだ差すあたりから、長く叫びがあがり、眉がそむけぎみに、ひそめられ、目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。
何事か、忌まわしい行為を待っている。……久し振りに読んだが、やはり、まず言葉があって、意味は後からついてくる、いやイメージや思考が後から追い掛けねばならない。仕事として校正をしようという場合、一瞬たりとも気の抜けない文章だ。
不穏なエロティシズムが漂っている。そのことを、わざわざキャッチコピーで「Eros」と綴った編集者は、ただの衒学(げんがく)趣味でないとすれば、照れたのか。改めて見直すと、この帯文、破れかぶれとしか言いようがない。古井の文体に幻惑され、苦し紛れに古代銅鏡なんぞをイメージの原基に持ってきたのかも知れないが、さて、当時の福武書店内にこれを判断できる人間は居なかったのか。
折角だから、古井らしい「Eros」を感じさせる文章を引く。
女が目をひらいた。
──待って、このまま。
そうつぶやいて、膝に力をこめ男の動きを封じ、こころもち反って下腹を深く押しつけ、腕はゆるめて片手の指先で男の右肩のうしろをさらに戒めながら、それと反対の側へわずかに傾けてゆるく見ひらいた目に、遠くへ心を遣る翳がかかり、眉がほどけて、脇腹から膝の内から細かい波が走った。
(略)
細かい雨が降り出した、とある時は膝の力をゆるめた。さわさわと林が鳴って、でも雨なのかしら、空が白みかけている。さわさわと、枝という枝が、芽吹いていく。泣いているわ、誰なの。泣き声につれて、芽吹きが、降ってくる。萌黄色の穂もいっぱいに垂れている。あれは花なのよ。立ち止まる人もいないけれど、林じゅう、花盛りなの。花と芽吹きが一緒に来たの。百年も遅れたの。誰かが目を見はりっぱなしにしていたので、それがいまようやくつぶって、泣いているんだわ。声も立たなくなった叫びを、どこかで聞いてもらったので。
エロティシズムに誘(いざな)われたはずが、いつの間にか怖い話に巻き込まれていくのが、『杳子』以来の古井文学、その醍醐味。
ここでついでに、だいぶ以前、古井由吉に触れた短文を書いたので出しておこう。後半は、当時編集した登山ガイドの直接的なPRとなっているので削る。よってやや舌足らず。
山に向かう想い
久し振りに『杳子・妻隠』(河出書房新社、1971年)を手に取った。初めて読んだのは刊行直後、私の十代最後の年。その10年後に再読し、今回が三度目。
2000メートルを超える山に登ったことはないし、また「日本百名山」なんぞに関心を持ったこともないが、十代の頃から私も山登りを楽しんできた。山を想ったり、山道で無心になる時間は、今でも私にとって重要事だ。
小説に描かれた山ということでは、出会った時代そのものが呼び起こす鮮烈な印象も加わって、すぐさま古井由吉の初期作品のことを思い浮かべてしまう。『杳子』、『男たちの円居』、『聖』……。
「杳子は深い谷底に一人で坐っていた」で始まる『杳子』。主人公は、谷間といういかにも磁力の強そうな場所でいわば幽体離脱状態にあった若い女──杳子と出会い、麓まで付き添って降りることになる。そして街で偶然再会し、二人は付き合い始める……。
二十数年振りに読み返して、やや意想外だったのは、というより単純に忘れてしまっていただけだが、谷でのことは二人の間で幾度も振り返られこそすれ、この小説中では山登りの話そのものがほとんど重要視されていないことだ。私は『杳子』をいつからか、 “山” が重要なファクターとなる物語と思い込んできていたが、そこで描かれているのは、山ではなくむしろ谷のことであった。そこでの “谷” とは、寄り添い手を差し伸べてくれる誰かが現れるまで蹲(うずくま)り続けるしかない、杳子の心身の在処(ありか)を示す直截なメタファーだ。
古井由吉、34歳の作品。一瞬の光景にすら生理やエロスをまとわりつかせながら、いつかしら主体が誰だったかさえ見失わせてしまうほど入り組みかつどこまでも醒めた文体が、既に確立されていることを私は確認しつつ、新鮮な気持ちで味わい直した。
神経を病んでいた杳子は、最後に「明日、病院に行きます。(略)そのつもりになれば、健康になるなんて簡単なことよ。でも、薬を呑まされるのは、口惜しいわ……」と言う。回復や再生が信じられている点において、やはりこれは青春文学だ。そして私は今回、この作品こそが村上春樹『ノルウェイの森』(1987年)の先駆ではないかと思った。
『杳子』発表から2年後、古井は「山に行く心」というエッセイでこう書いている。
「谷に分けいっていく時の心理には、コースのはっきりしている登山でも、独特なものがある。人間の理性の安定には、ある程度の水平な視界のひろがりが必要なようだ。視界がせばまり、水平方向より垂直の方向の感覚が強まり、両側から山の重みに迫られると、人間の心の動きは微妙な変化を遂げて、一方では自己防禦的にけわしくなり、他方では幻想や幻覚へ誘われやすくなる」
ここで古井は明らかに自作(『杳子』)解説を行っている。谷こそが山の持つ垂直性が際立ち体感として迫ってくる場所であり、病者に限らず、日常の隙間でふと翳りを感じ、 “ずり落ちてしまう” 想いに囚われることのある中年男にとっても、危ない場所だ。谷を見下ろす断崖に立って身を投げはしなくとも、どのみち人生はいわば緩やかな滑落だ、とでもいうように。
山歩きの楽しみを書こうとして危うい方向に話が行ってしまったが、崖上の小径や急降下の岩場や滑りやすい沢など、山中には確かに危険な要素があり、だからこそ私たちはそこで、下界にはない光景に遭遇したり、“小さな冒険” を味わうことができる。(後略) ──『心のガーデニング:読書の愉しみ』NO.104、2009年3・4月)
[9/3最終]
→花乱社HP