■君よ憤怒の河を…──吉本隆明/高倉 健 |
夕刻、『戦後代表詩選──鮎川信夫から飯島耕一』(鮎川信夫・大岡信・北川透編、詩の森文庫、2006年)をめくる。
火の秋の物語──あるユウラシヤ人に 吉本隆明
ユウジン その未知なひと
いまは秋でくらくもえている風景がある
きみのむねの鼓動がそれをしっているであろうとしんずる根拠がある
きみは廃人の眼をしてユウラシヤの文明をよこぎる
きみはいたるところで銃床を土につけてたちどまる
きみは敗れさるかもしれない兵士たちのひとりだ
じつにきみのあしおとは昏いではないか
きみのせおっている風景は苛酷ではないか
空をよぎるのは候鳥のたぐいではない
舗路(ペイヴメント)をあゆむのはにんげんばかりではない
ユウジン きみはソドムの地の最後のひととして
あらゆる風景をみつづけなければならない
そしてゴモラの地の不幸を記憶しなければならない
きみの眼がみたものをきみの女にうませねばならない
きみの死がきみに安息をもたらすことはたしかだが
それはくらい告知でわたしを傷つけるであろう
告知はそれをうけとる者のかわからいつも無限の重荷である
この重荷をすてさるために
くろずんだ運河のほとりや
かっこうのわるいビルディングのうら路を
わたしがあゆんでいると仮定せよ
その季節は秋である
くらくもえている風景のなかにきた秋である
わたしは愛のかけらすらなくしてしまった
それでもやはり左右の足を交互にふんであゆまねばならないか
ユウジン きみはこたえよ
こう廃した土地で悲惨な死をうけとるまへにきみはこたえよ
世界はやがておろかな賭けごとのおわった賭博場のように
焼けただれてしずかになる
きみはおろかであると信じたことのために死ぬであろう
きみの眼はちいさなばらにひっかかってかわく
きみの眼は太陽とそのひかりを拒否しつづける
きみの眼はけっして眠らない
ユウジン これはわたしの火の秋の物語である
(1951年10月、『転位のための十篇』より)

やっぱり私は、この人の文字遣い(漢字と仮名の表記)が気になる。特に主要な動詞、それに、この名詞を平気で平仮名にするか! と思うことが多い。
確かにそれは、今更言うまでもなく吉本隆明の戦略だろう。ただ、この人の表記の選択は、わざわざ難しい漢字を使うのは権力的だ、というのとちょっと違う。単に、もう少し抜けている。杜撰。
だがそれでも、この(あえて言うなら)もう一人の高倉健の如き表現者は、間違いなく──私自身の出来やそもそもの人品はさておいて──私の先達だ。この人の言葉や感性が全く通じなくなった時こそは、本当に「世の中が変わった」(戦後が終わった)と言えるだろう、という意味において。
あらゆる風景をみつづけなければならない
そしてゴモラの地の不幸を記憶しなければならない
きみの眼がみたものをきみの女にうませねばならない
憎悪と貧困と差別に根ざした国家主義がどんどん進行するこの国と世界しかないのであれば、男どもはいつだって「憤怒の河」を渉るしかないのではないか。勿論、「駆けつけ警護」なんぞのためでなく。
参考→吉本隆明についてのメモ
[多分、書き掛け]