■気分はもう、 焼き打ち──黒塗り街宣車、アナーキズム、そして週替わりの夕暮れ[9/27-10/2] |
腹に据えかねたのは、もう今年は3〜4回程かになる黒塗り街宣車の福岡都心部における傍若無人振りのみならず、それを放置していると思われる警察署の対応だ。そのマイク音量は、大通りと地域に響き渡り、空襲警報下にあるとはこのようではないのか、と思ってしまうほどだった。
あの──わざわざ騒然たる街頭シーンを得手勝手に現出させ、市民をうろたえさせて面白がっている──街宣車の横暴が許されていて、一方で私たちが、例えばバス車内でいちいち「携帯電話での通話はご遠慮下さい」などと市民的マナーを押し付けられている図は、哀しいほど喜劇的だ。私たちは羊扱いされている。ヘイトスピーチと同じく、彼らを放置するのならば「法治国家」とは言えないはずだ。
電話に出た苦情係の担当者は、低姿勢で丁寧な応対だった。相手が「右翼の街宣車ですね」と言うのを、私は「いや、ヤクザ(暴力団)の街宣車です」と正した。車列を組み、戦闘服姿にサングラスをかけ、「オラ〜、オラ!」とマイクで怒鳴りながら大通りを我が物顔でノロノロ運転する輩──連中が「右翼」を標榜するならば、もしまだ居るとして純正な右翼人こそが憤るはずだ。そういう連中のために、鶴田浩二は──演出だったにしろ──戦死した友を悼み国の行く末を憂えたのではないだろう。
「福岡市には、騒音条例はないのですか?」と問うた私に、件の警察署担当者は「いや、あります」と答えた。──では、なぜ彼らを放っておく?
私がパレード(?)を見た場所と時間を尋ねた彼は、「車のナンバーを覚えていますか?」と(見ていない)。そして、「届け出のあったデモやパレードには警察官が付いているのです。けれど、人手のこともありますし、音量を計る機器を持っていても、なかなかリアルタイムで計るのは難しいのです。ですから、あまりに迷惑な場合は、市民の方が110番通報していただければパトカーが駆けつけます……」と。
要するに、私に110番通報しろということ、そういう通報がなければ警察は動かない、ということが分かった。──私はタレコミ屋になれるだろうか。
*
「右翼」というのは、一つの思想的立場だろう。宗教と同じく、思想も広く「布教・宣伝」活動を行うわけだが(だから「街頭宣伝車=街宣車」)、そのことと、相手を威嚇し怖がらせようとすることとは決定的に違う。おそらく誰かもしくはどこかの組織から日当を貰い福岡都心部にやって来て、あの黒塗り街宣車内からただおらぶだけの者たちに、取り上げるほどの思想はあるのか。また、ヘイトスピーチもそうだが、そういう時に限って──取り締まらないための言い訳として──「表現の自由」が語られていないか。おや、「表現の自由」やそもそも「基本的人権」なんぞの概念を知っていたんだ、と。
そこでまた思い出したのが、今年前半の読書で心に残ったのは、栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ──伊藤野枝伝』(岩波書店)、それに『現代暴力論──「あばれる力」を取り戻す』(角川新書)。
私は以前から大杉栄・伊藤野枝には関心を持ってきたが、栗原氏の野枝伝は実にユニークで痛快だ。タイトル、造本、そして何より著者の文体は、えっ、あの岩波書店が?!……と思うこと必至なのだが、同書のキャッチフレーズを下に。
「不朽の恋を得ることならば、私は一生の大事業の一つに数えてもいいと思います。」筆一本を武器に、結婚制度や社会道徳と対決した伊藤野枝。野枝が生涯をかけて燃やそうとしたものは何なのか。気鋭の政治学者が、ほとばしる情熱、躍動する文体で迫る、人間・野枝。その思想を生きることは、私たちにもできること。やっちまいな。
これだけからでも「匂う」ように、著者・栗原氏の文体は(時々論旨も)独特で、読み始めの時点で私は、こいつ、自分で書いていて──上記「やっちまいな」の如く──余計な合いの手を入れるな、と思った(間違いなく彼は、太宰治のことも大好きだろう)。
これから本書では、野枝の人生の軌跡をおっていくが、あらかじめその特徴をひとことでまとめておくとこうである。わがまま。学ぶことに、食べることに、恋に、性に、生きることすべてに、わがままであった。そして、それがもろに結婚制度とぶつかることになる。(略)
もしかしたら、これを真実の愛をもとめた結果だというひともいるかもしれないが、そんなきれいなものではなかった。わがままだったのである。(略)
もっとしりたい、もっとかきたい、もっとセックスがしたい。ほんとうに、これだけで突っ走っている。これじゃちょっとものたりない、キュウクツだとおもったら、いつでもすべてふり捨てて、あたらしい生きかたをつかみとる。あたかも、それがあたりまえのことであるかのように。というか、生きとし生けるものにとって、そういう衝動というか、やりたいとおもったことをおもうぞんぶんやる以上に、大切なことはないとおもっていたのだろう。
伊藤野枝という強烈な個性に対しての、この「もう少しは漢字を使えよ」とどうしても言いたくなる、何かの強迫観念に取り憑かれたような、でもすこぶるノリの軽い文体。
ところが、これが結構嵌ってしまう。そのスピード感はなかなかのものだ。何より、栗原氏は伊藤野枝のことが大好きなんだね、そしてそもそもそういう気持ちこそが本(伝記)を書く理由なんだろうね、ということを考えさせられてしまう。
「あとがき」で彼はこう始める。
「この本をかいているあいだに、かの女ができた。三年ぶりだ。まだつきあいたてということもあって、ひたすら愛欲にふけっている。好きで、好きで、好きで、どうしようもないほど。セックスだ」
そして、その末尾。
「残念ながら、野枝さんはぶっ殺されてしまいましたが、その思想を生きるということは、わたしたちにもふつうにできることなんだとおもいます。はじめに行為ありき、やっちまいな、ということで。またどこかでお会いしましょう。さようなら」
私たちはひょっとして、こういう文体、こういうあからさまさを指弾して、「本を私物化するな」とでも言わなければならないだろうか……。
人はなぜ本を書くのか。本を書くというのは、あくまでも、どこまでも、プライベートなことではないか──そう問われているように私は思う。人生の主人公は誰か、という問いの別ヴァージョンとして。
*
野枝伝より半年ばかり前に刊行された『現代暴力論』にも簡単に触れておこう。
この書は目次でおおよそ論旨の見当がつく。
はじめに──暴力を肯定しなおす
第一章 国家の暴力──我々は奴隷根性を植えつけられた
第二章 征服装置としての原子力──生きることを負債化される
第三章 生の拡充──支配のための力を解体する
第四章 恋愛という暴力──習俗を打破する
第五章 テロリズムのたそがれ──「犠牲と交換のロジック」を超えて
おわりに──わたしたちはいつだって暴動を生きている
イスラム国が人質を殺害する。恐怖のイメージを氾濫させ、恐怖でひとをしたがわせる。あるいは、それができると誇示することによって、いっしょにひとを支配しようじゃないかと、自分の国にひとをまねきよせる。いずれにしても、国家の動員力が増している。いまそういうのがテロリズムとよばれているわけだが、ようするにやっていることは、ひとがひとを支配するということだ。もちろん、イスラム国は、カネも軍事力もある国々からおもいきり空爆されてひとが殺されまくっているわけで、それに対抗するために人質殺害という手を講じているのだとおもうが、みえかくれするのは、そういう軍事的側面ばかりじゃない。国家がひとをしたがわせるために、あるいはしたがうことがよいことだとおもわせるために、テロリズムをもちいているということだ。テロリズム。それはもっとも効果的な統治手段である。
しかし、よく考えてみると、これってイスラム国だけじゃなくて、どんな国家もやっていることなんじゃないだろうか。征服国家という考えかたをおもいだしてほしい。国家というのは、支配集団がひとの生殺与奪の権をにぎることからはじまっていた。八つ裂きにされたくなかったら、われわれにしたがえ、奴隷としてはたらけ、そうすることがよいことだと。原子力国家というのもおなじことだ。原発が爆発したらみんなが死ぬよ、テロリストにのりこまれたらおしまいだよと恐怖をあおって、それがいやだったらわれわれにしたがえとかいってくる。テロ対策の名のもとに、市民の監視でも暴力の行使でも、警察はなんでもやりたいほうだいだ。これ、いまでは一般化しているようにおもわれるが、テロ対策というのは、いってしまえば国家によるテロリズムなのである。あらゆる国家の根っこには、恐怖による統治がある。
(「第五章 テロリズムのたそがれ」より)
ここで栗原氏は、結構まともなことを、というより「政治学」の大事なエッセンスを語っている。
帯文にもあるように、確かに今、この国には「隷従の空気」が漂っている。そこで一番気になるのが、先の参議院選挙で明らかになったように、初めて投票した18歳も含めて、20歳未満の若者の中でも権力政党(自民党)寄りの人たちが(勿論相対的に)優勢らしいことだ。
これは若者の権力志向を表している、と私は考えない。とりあえず “勝っている” 政党に一票(勝ち組志向)ということなのか、大勢に逆らうことへの恐怖なのか──「いじめ」や差別、貧困といった問題の渦中もしくは予備段階にあるかも知れない人たちに、どこか「隷従」の匂いがしないだろうか。誰かから、どこかから、ともすれば何気なく、国家や大勢に従うのは良いことだと思わせられていないだろうか……。勿論、それは若者だけでなく。