■反逆しない若者たち──理想主義は絶滅したのか |
そうした意味において、社会学者による社会や時代の分析には──個や個人の思惑・思想からは距離を置いているので──胸のすく思いを持つことも多いが、一方で、十把一絡げにされてしまうようでむかつくこともある。自分が被験者か被写体の一人にすぎない、という感覚から言えば、そのむかつき具合は精神科医に対するものと似ている。
このところ私も気になっていることだったので、「若者の与党びいき」について、9月30日付「朝日新聞」の山田昌弘氏のインタビューは色々と考えさせられた。
山田氏は社会学者、コピーライター、中央大学文学部教授。一貫して現代社会における若者を中心とした人間関係を社会学的に考察してきた人だ。私は『希望格差社会―─「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』 (ちくま文庫、2004年) 、『パラサイト・シングルの時代 』(ちくま新書、1999年)ぐらいしか読んできていないが、感想としては同じで、分析が当たっていて実にリアルなだけに未来は暗い──というものだ。良薬は口に苦し。社会学に対し処方箋を求めること自体が間違いだとは分かっているのにね。
若者は現状を打破する政党を支持し、中高年は現状維持の保守を支持する、というのは1980年代までで、今は幻想です。生活満足度の調査では、いまの20代は8割が満足と答える。だから与党に投票するのです。
20代の満足度は、40、50代はおろか70代以上も上回り、全世代で最高です。70年ころまでは一番低かったのと比べると、大きな変化です。
なぜか。結婚するまで親と同居する「パラサイト」(寄生)が増え、今や独身者の8割。親が住居費を負担し収入の割に可処分所得は大きい。学卒後は別居するのが普通の欧米と決定的に違います。
将来について、日米独韓など7カ国の比較調査で、日本の若者は「将来に希望を持っている」が6割、「社会は変えられると思う」は3割で、いずれも最低です。少子高齢化で成長は望めず、年金も危ういとか不安なニュースばかり。他の政党も新しい社会のモデルを提示してくれない。若者に社会の将来に希望を持てというのは無理でしょう。
横軸に「現状に満足か不満か」、縦軸に「将来に希望があるか悲観的か」という4象限グラフを描きます。現状に不満で未来に希望を持つ人は「革新」(ラジカル)。貧しいが成長に期待が持てた80年代までの若者です。現状に満足で将来に希望がある人は「進歩」(リベラル)。昔の自民党支持者です。現状に満足だが将来に悲観的なのが「保守」。今の日本の若者です。最後が現状に不満で将来にも希望がない「反動」。トランプ現象など右傾化する欧米の若者がここに入ります。
足元を見れば、日本人に最も大切な、安定した人並みの生活への近道は「男性は正社員、女性はその妻になる」。正規雇用は3分の2、非正規が3分の1となり、高度成長期なら誰でもなれた正社員は今や既得権です。私は将来、日本に3分の2と3分の1の分断が起きると思います。
大学生の8割は一括採用で正社員になれる可能性があるから、懸命に就活する。女性の一部は正社員の夫を得ようと婚活に邁進する。みんなが3分の3に入りたい。既得権者の仲間入りという意味では両者は同じなのです。一度既得権の外に出ると、やり直しがきかないのも日本の特徴ですから、みんなしがみつく。
そして与党は既得権を体現している。現状を大きく変えず、経済を強化する政策を打ち出している。正社員への間口を少し広くする政策ですから若者が与党びいきになるのは何の不思議もありません。
学生が欲しいのは「プチ満足」。日々接して痛感します。大それた夢を持たず、正社員になってパラサイトし、将来は家庭を築いて親と同程度の暮らしを得るのが目標。この基本構造が変わらぬ限り若者の保守的傾向は続くと思います。
●ビルの谷間で

2005年刊行の本だが、ドイツ文学専攻の高田理惠子氏は『グロテスクな教養』(ちくま新書)で「若い人たちが、いかに生きるかということ自体を考えなくなったわけではない」と指摘している。今度の読書会のテキストになっているので、このところ初めて読んでいるが、顔つき(で決めるが)からしてなかなかの人のようだ。
「青春の終焉」と言われ、「教養主義の没落」と言われるのが、1970年代以降、すなわち大学紛争以降の現状である。だが、いったい何が終わったというのだろうか。抽象的に言えば、西洋近代の啓蒙の精神であり、ヒューマニズムであり、人生の意義や理想であろう。(略)
若い人びとが、たとえ努力主義や進歩信仰や西洋崇拝や大きな物語に興味を示さなくなったとしても、いかに生きるかということ自体を考えなくなったわけではないのは、日常レベルでは確認できる。それどころか自分探しや自己実現や自分らしさは現代の若者、とりわけ女性たちの強迫観念までになっているではないか。その隙をついて、自己啓発セミナーやら新興宗教やら、その他モロモロが入りこんできているのだろう。まことに、自分自身で自分自身を作りあげろという西洋近代の要請、かつては強者にのみ与えられた試練であったものが、現在では、広くわれわれを脅かしている。そのせいで、「おたく」的生き方(東浩紀)や「まったり」生きること(宮台真司)が、逆説的にクローズアップされるのかもしれない。われわれの教養の定義に従えば、「まったり生きろ」という忠告は立派すぎる教養論である。

[以降、書き掛け]